フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

『ジョーカー』はいつジョーカーになったのか

1か月前に映画『ジョーカー』を見たのだが、その感想を書こう書こうと思っていて時間が経ってしまった。

 

SNSでもメディアでもたいへんに話題作だったので、いったいどんな作品だったのだろうかと思い、金曜の仕事終わりに映画館まで移動し、レイトショーで作品を見た。鑑賞後に最初に思ったのは、難解。そして、吐き気のような不快感が心の中に残っていた。

映画に詳しくないのだが、これがアカデミー賞は確実と言われるような名作なのか、と思いながら帰りの電車に乗っていた。

映画好きが自分の考察をひけらかしたくなるような作品だろうが、これが一般の人の心をえぐる作品になり得るのだろうかと大変に感じた記憶がある。

 

人間の心というのはある時点から悪魔になるわけでも善人になるわけでもなく、時間的に連続的なものとして変化し続けるものだと思っている。そのため、ある衝撃的な出来事がきっかけでアーサーが突然ジョーカーに変貌したとは思わない。ただ、この時にはまだジョーカーではなく、この時にはジョーカーだったという記述は可能である。

 

アーサーが最初に犯す殺人は、地下鉄での会社員を3人銃殺するところであるが、この時点ではまだアーサーはジョーカーではなかっただろう。隣人の女性の部屋に入った入ったところ(アーサーの妄想であったとしても)でも、まだジョーカーではなかったのではないだろうか。自分の生きにくさの源となったかもしれない母親を殺す時には、まだジョーカーではなかったのではないか。最初の殺人を犯すきっかけとなった同僚のランドルを殺した時点では、もしかしたらジョーカーだったかもしれない。テレビ番組の放送中にマレーを銃殺した時にも、もしかしたらジョーカーだったかもしれない。そして、ラストシーンでカウンセリングを受けている時点では、ジョーカーだったと思われる。

 

アーサーはコメディアンになりたいという願望を持っているが、繰り出されるギャグはどれも面白くなく、残念ながら独りよがりな内容に過ぎない。一般的に、人を笑わせる人間は実は常識人でなければならないと言われる。笑いというのはいろいろに表現をされる。「緊張の緩和」「期待の裏切り」「人との違いを笑う」などなど。ただそれらのいずれにも前提として共通するのは、「世の中の人々」という認識という枠組みがあることである。

世の中の人々は、社会的な状況でどのような場面に緊張状態を感じるか、ある場面で次に何を期待しているか、特定の人は社会に多数の人々と何が違っているか、という認識を分かっていた上で笑いを組み立てなければならないのである。したがって、はなから認識が世間とずれている人というのは笑いを生み出すのは難しい。そして、アーサーは間違いなくそういった人物である。

しかし、それでもピエロとなりコメディアンとして活動している時には、希望を捨てずに人々を笑わせるという夢を持って活動している。仕事をクビになった後も、自分の笑いが通用すると信じて活動していた時には、まだジョーカーではなかったのではないだろうか。

 

ジョーカーになったのはいつか。言い換えれば、人を笑わせることを諦めたのはいつか。つまり、自分の感性を他人の共有することが不可能だと確信した時に、アーサーはジョーカーとなったのである。

 

映画の最初でカウンセリングをした時点では、自分がつけているネタ帳をカウンセラーに見せることをしていた。一方、映画のラストでカウンセリングをしている場面で、アーサーは不意に笑い出す。カウンセラーが問うと、ジョークを思いついたというようなことを言う(と記憶しているが1か月前に見たので曖昧になっている)。

しかし、そのジョークを口にすることはなく、アーサーは一言「(言っても)理解できない」と告げて、ジョークを言うことなくカウンセリングは終了する。

自分の価値観を他者と共有することを諦めた時というのは、いわば社会から完全に孤立することをいとわなくなった時である。この時すでにアーサーは、ジョーカーとなっていた。

では、アーサーはなぜジョーカーになったのか、という疑問がわくのであるが、私はこの映画の中からそれを見出すことはできなかった。人間を形成する要因というのはあまりにも多くが関与しており、その社会を形成する要因もあまりにも多くがありすぎる。

 

ジョーカーの出現で街にあふれた暴徒は、社会的地位の高い金持ちの人々を襲うのであるが、その点が私には残念だった。自身が不遇な生活をしているという憎悪の対象を、ただ経済的理由にだけ向けるというのは、人間の心理を単純化しすぎている。50年前、100年前であればそれで納得がいっただろうが、何か目に見えないが不遇となっている何かがあるはずだという表現をされれば、より現代な状況に近い雰囲気を描けたのではないだろうか。ただ、それもバットマンの父親が殺された描写とセットとなっており、もしかしたら経済的状況だけでない閉塞感が生まれた時代の社会を救うヒーローとして、バットマンが登場すると暗示するという希望も持てるのかもしれない。