フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

ふじみ野市立てこもり事件から、医療者と患者間での前提の違いを考える

1月27日に埼玉県ふじみ野市で在宅医療をしていた医師らを人質に取って立てこもった事件が起こり、医師は散弾銃で発砲され死亡、理学療法士は重傷を負うなどの結果となった。容疑者は「母が死んでしまい、この先、いいことがないと思った。自殺しようと思った時に先生やクリニックの人を殺そうと思った」と供述しているとのことである*1

 

事件についての尚早な言及は事後的な検証がなされるまで避けるべきだろうが、今後の法的な整備に影響を及ぼしそうである。あまりこのニュースについて知らなかったため、なんとなくテレビを見ながら「おっかないな」と思っていたが、どうやら誠実な対応をされていた医師が殺害されたようで身につまされる思いである。

 

この事件に対して、制度的な整備をすべきという論点をいくつか見かけたため、以下に整理してみたい。

 

1.容疑者の人格に原因を求める論*2

2.老々介護など社会的背景に原因を求める論*3

3.散弾銃の整備など、今回の事件の特異性から離れて凶器の規制を主張する論

 

 

まず3から言及すると、こちらに関してはアメリカでの銃乱射事件が起こるたびに銃規制について議論になるのと同様に、使われた凶器そのものについて規制を求める声というのはたびたび上がる。日本の散弾銃の扱いについて詳細には調べていないが、この点の整備の論はさほど本質をついていない。学校での殺傷事件でナイフが用いられたからと言ってナイフを日本全体で規制できないように、凶器の規制をしても次なる凶器が使用されるに過ぎない。

 

さて、1についてまず少し考えてみる。

容疑者の心的な異常性に説明を求めるならば、今後の対処として事件を起こしうる、いわゆるモンスターペイシェントを早期に発見し、有効な心理学的・精神医学的介入を行うという手段があるだろう。

うつ病が疑われる患者にQIDS-Jなどのスクリーニング検査があるように、モンスターペイシェントに適応可能なスクリーニング検査を考案するという手段は想像される。ただ、こうした人たちは医療者からの提案に非協力的であることが想定され、そもそもスクリーニングを行えない可能性がある。そうであれば、医療者側がモンスターペイシェントであると主観的に感じた場合に、公的な介入を要望するという方法が現実的となるだろう。

しかし、モンスターペイシェントへの対処が社会的に整備されているとは言い難い。個人的な経験として、どれほど説明を尽くしても理解されない患者や患者家族というのは確かに存在する。医師の説明が不十分であるという面もあるだろうが、多くの医師が日々患者に説明をしていて大きな問題となっていないことを考えると、医師の説明のみに原因を帰することもできない。やはり患者や家族自身の資質に関わってくる面がある。この点に関して、私は医療者と患者とがそれぞれ有する「前提」の違いがあると考えている。これに関しては後程言及しよう。

 

ただ、個人の資質の問題としてモンスターペイシェントを理解し、対処法について社会的な整備を進めたとしても、最初に接点を持つのは医師や看護師など医療従事者であることに変わりはない。そして、医療現場はしばしば時間制約のある場面も多く、特定の患者のみに時間を割けないことがある。例えば、救急医療の現場に理不尽な要求をする患者が来院した際、今すぐ対処が必要な患者がいるのに、他の患者に時間を割かれてしまうという場面がある。こうした時の医師としての対処法は教育されることはなく、実践の中で対応を学んでいくのが現状である。

社会的な整備の優先度としては、時間的制約が多い場面での対応が先であり、その次に、時間的余裕のある一般外来や入院患者の対応という順になる。

時間的制約の多い場面では、警備や警察の介入など実効力を伴う対処しか現時点ではないだろう。暴力や暴言を受けていない場面でどのレベルであれば介入を必要とすべきか、今後は議論の必要がある。

時間的余裕のある場面では、すぐに外部の実効力を必要としないで医療者自身で対処可能なことはある。だが、それにより医療者の労働時間に影響が出ることはしばしばあり、こちらもやはり介入が必要であろう。最初にモンスターペイシェントと対することが多いのは医療者であることは避けられないが、2回目以降の外来や入院での対応の際には、公的な対応の余地があるだろう。この点も今後は議論の必要がある。ただ、患者の気質として説明可能な範囲のこともあり、過度にモンスター化させてしまう懸念もありうる。これに関しては、モンスターペイシェントという存在が社会的に認められている以上、医療者の対応を医学教育の中に取り入れるなど医療者側の教育整備があって良い。

 

 

続いて2に関して言及するならば、これこそ老々介護などの現実的な問題に対する社会的な整備の余地がある。そして、おそらく今後の討論番組などで議論となるのはほとんどこの点だろう。なぜならば、現場を見ずに巨視的な視点から議論を進めやすいからだ。

老々介護や必要な介護制度にアクセスできないなどの状態を危険因子として、そうした因子を持つ人々に積極的に介入することで、今回のような事件を最小化できると予想される。だが、現実にそうした境遇に立たされている人々のうち今回のような事件化する人はごく少数であると予想されることを考えると、社会的背景のみに問題の原因を求めるというのは本質的ではないだろう。

 

 

さて、先ほどの「前提」について言及してみる。ベイトソンの論を引用してみる。

芸術も、宗教も、商業も、戦争も、そして睡眠までもがそうなのだが、科学もまた前提 presuppositions [思考以前の思い込み]の上に成立している。…学生たちの思考に何とも奇妙な溝があるのを見せられてきた。それは彼らがある種の思考のツールを欠いていることによる。この傾向は初等・高等、文系・理系、男子・女子の区別なく一様に現れる。彼らにかけているもの――それは前提の認識なのだ。*4

ベイトソンも言及するように、この前提の有無というのは知的な高低に依存しない。その人が今までに拠って立ってきた価値観や経験に裏打ちされた、理解の前段階の思い込みなのである。合理的な思考は非合理的なものに裏打ちされているように、論理的であるというのは「論理的であるという感覚」であるというように、前提というのは理屈で説明がつく領域ではない。

こうした前提の齟齬については、卑近な例を挙げれば新型コロナウイルスに関するマスメディアでの報道と医療者の理解を見てみればわかる。医療者がアクセスするであろうUpToDateやNew England Journal of Medicineなどのエビデンスとしての質が高い情報源よりも、とある患者の症状や一部の論文などのセンセーショナルな話題をしきりにメディアが取り上げている現状は、まさしく前提の違いが浮き彫りになった例である。医療に限らず、生まれながらイスラム教徒ととして育った人に、日本人がわびさびの文化を説明してもなかなか理解されないだろうことを考えてみても良い。

 

では、具体的に、医療者と患者ではどういった前提が共有されないのか。医療者と患者家族の間で本来共有されねばならない前提として、「最善の医療が受けられるとは限らない」という点があるだろう。医療過誤訴訟で争点となるのは、当人の受けた医療が最善であったかということではなく、医療界全体として一般的な水準を下回っていたか、ということであるはずである。最善の医療が受けられない理由は、臨床能力の高い医師の配置などの地理的な理由と、他の患者への対応や複数の医師がいるかなどの時間的な理由とが関与している。しかしそういった側面を均質化した上で、その医療が一般的なレベルだったかが判断されるわけである。

医師からの説明の際に、そうしたことは当然説明されない。それは医師の資質に関わる問題であり、患者の不安に関わる問題であるからだ。だが、本来は共有されているべき前提であり、言葉に出さないが実は了解されているともいえる事柄でもある(つまり前提である)。

 

ある治療を受けるかどうかの判断を患者や家族に迫る際、「医学のことは分からないので治療は先生にお任せします」という反応が出ることがある。これは、前提の拒絶、として解釈できるだろう。医療者と患者の間に存在する前提の違いを、患者側が受け入れることを拒否しているのである。ただ、これは「先生を信頼しているので」という認識があるならば、成功した前提の拒絶と言える。

そうであるならば、前提を超えて患者が医療者に身を任せることの根底には、医療者と患者との間に信頼があるかということが問題となるのである。であるから、医師ー患者関係にはラポール形成が重要となるのである。つまり、前提は共有され得ないが、信頼の構築によって前提を背景化するのである。

 

失敗した前提の拒絶というのはあるだろうか。それは、医療者がどれほど言葉を尽くしても患者が理解しようとしない(できない)という状況だろう。

ある患者を診察、検査し、現時点では緊急性がないため一度帰宅し、症状が悪化した場合に再度受診するよう説明する場面というのは、医療の現場ではよくある。たいていの場合、患者は理解して帰宅するが、一部、どれほど説明しても理解せずに入院を希望する患者や家族がいる。こういった場面でもやはり前提が異なることを受け入れられないことが理由にあるように思える。例えば、患者は「救急外来に来れば今の症状を全て鎮めてくれる」と考えているが、医療者は「症状は残っているだろうが命に関わる状況ではないため様子を見ることができる」と考えている、と想定できる。そしてこのことをいくら説明しようと、理解されない患者は理解されない。実際にこうした対応を経験してみて感じるのだが、これは理解の前提が異なるとしか言いようがないのである。

 

こうした前提の違いは、先ほどのベイトソンの引用の通りで、医療に限らずあらゆる分野で突然現れる。何か事故が起こった時に、安全性に問題はなかったことを企業がいくら検証しても被害者は納得できない。政治家が関与した取引が法的に問題はないとしても倫理的に問題があるように見えると、社会の大多数は納得できない。そこには、その人が属する集団や社会の前提が関与しているのである。

『贈与の系譜学』(湯浅博雄、講談社) 感想

半年間もブログを更新していなかった。気がついたら2021年も終わるので、何か最近読んだ本の感想でも書いてみよう。

 

贈与の系譜学というタイトルを見て、モースで有名な「贈与」に関して、人類学的な視点などを系譜的に追う内容かと考えていたが、実際には違っていた。筆者の問いとしては、「純粋な贈与というのは可能なのか」という主題を追いかけていき、最終的に贈与とも交換とも取れない浮遊した領域を提示する。

 

筆者は最終的に交換の関係性に取り込まれることを「エコノミー」と表現する。

 

資本制や市場原理に基づいた生産、交換・流通、消費、再生産というエコノミー体制のなかで生活し、多くの他の人たちと関わり合っている。(p.13)

 

今まで贈与がどのように捉えられてきたかを、アリストテレスからカント、ニーチェ、モース、バタイユヘーゲルランボーなどを引用しながら考察されていく。各章ごとに考察が深められていくので、全体で感想をまとめるのがやや面倒なのだが、個々の個所ではそうかと感じる点が多かった。

 

例えば、ニーチェアリストテレスを引用しながら、正義の観念はエコノミー的活動と結びついていることを指摘する。

まず古代ギリシアで、正義、正しさという観念が、一般的に言って、法に適っていること、均等であること、等しいこと、共約しうるものであることと結ばれていたということが理解できる。(p.49)

アリストテレス自身の思考も、利得、損得など「交易に由来する名称」に、当然のように基づいており、エコノミー的活動とその心的付属物から出発して、正義=正しさの観念を考えている。(p.60)

 

マックス・ヴェーバーによる、プロテスタンティズムエートス、心的志向性が資本主義形成の一端となったことを考えると、エコノミー的な交換概念は近代になって出現したと個人的には考えがちだったのだが、古くから社会の中で存在してきたと気づかされる。資本主義社会に交換は内包されるが、交換の存在する社会は資本主義社会とは限らないため、考えてみれば当然なのだが、そのことを暗黙のうちに組み合わせている自分に気づかされた。

 

それはそれとして。筆者は論を進める中で、純粋な贈与というものは存在しないのでは、という問いを立てる。まず、キリスト教の供儀は、こうした交換概念に基づいた正義論を脱却するものとして捉えることができる。

…古代社会の正義=正しさの観念は、原初の時代から存在した<借りを負う、貸しを持つ>という活動(およびその心的付属物)から派生した面を持っている。つまり元に戻す義務、正しさを復原する義務であり、恩=借りは必ず返す義務である。それゆえ、過ちや罪…は必ず償われなければならず、「無償で」赦されることは考えようがない。…初期キリスト教はある意味で、古くからの正義=正しさの観念を破り、のり越えようとしたのである。(p.99)

しかし、自己犠牲としてのキリストの受難は、一見供儀に見えるのだが、突き詰めるとその受難に応えるための負債を人間は負うこととなり、そのうちにエコノミー的次元に取り込まれてしまう。

 

様々な引用をしながら、純粋な贈与について考察すると、最終的には交換の観念を除外することはできず、純粋な贈与に到達できなくなる。それを筆者は死との類似性から論じる。死の経験は死ぬ瞬間まで達成されず、死に近づくほどに死から遠ざかっていく。そして、贈与に関する疑義を反復することに意義を見出す。

 

もう一点、個人的に興味深かった点は、贈与が量的な時間観念<クロノス>の次元を脱却する性質を持っているという点である。

自己犠牲、贈与という出来事は、すなわちクロノス的時間が破れて、そうした裂け目の時間に、時間の本来的次元が開かれると同時にーそのとき初めてーかろうじて<起こる>かもしれない出来事は、それがほんとうに生きられるためには、どうしても<根源的な模擬性>の効力とともに経験される面を持っていること、言いかえれば、つねに<反復的な仕方=模擬的なやり方で生きられる部分が不可欠である>…(p.189)

こうした通常の時間観念を打ち破る側面があることは宗教的な儀式と関連があり、動物を犠牲に殺す瞬間を見る恍惚に、通常の時間的な観念を脱して質的な時間を生きる瞬間が見いだされる。

そう考えてみると、宗教というのは通常の時間観念の脱却と、贈与の側面がほぼ必出することの意味が理解できる気がしてくる。キリスト教、仏教、イスラーム、いずれでも「与えること」はテーマとして必ず登場してくる。

仏教的世界観では、根本には修行によって現在の世界観を脱却することを目指す側面がある。分け与えることが、単なる善き行いに留まらない面があるという考察のきっかけになりそうである。

 

よく聞く議論であり個人的にもときどき考えるテーマではあるのだが、本書を読んで、現代の社会で死を目の前で見る機会がないことによって実はこうした到達しようとしても到達できない観念というもののリアリティから疎外される状況を生み出しているのではないか、とも考えた。

科学的思考が中心となり、質的な時間観念を感じる機会がほぼ消失した現代では、量的な時間観念の裂け目を実感する機会はほとんどない。かつて自宅で親族が亡くなっていた時代には、死に至る過程(すなわち死そのもの)を目の当たりにする機会があり、自身が最終的に経験するまで到達できない次元にリアリティが存在した。しかし、現在では死んだ状態(すなわち死"後")の人を見ることはあっても、通常の生活で死の過程を見る機会はなくなった。さらに、かつて存在した祝祭もどんどん喪失しており、非日常を身を持って体感する機会は滅多になくなっているわけである。

そうした時間的な裂け目を実感した経験がそもそもないのであれば、贈与的な次元にそうした恍惚とする側面があっても、そこに魅力を見いだせないのではないか。すなわち、現代の客観的事実しか事実として存在できない社会では、クロノスを抜け出すこと自体に魅力がないのだから、贈与にも魅力はないことになる。

 

一方で、コロナにより特に若い世代で寄付などを行う人々が増えたとの話もある。そうした質的な時間経験を、贈与自体に見出すことができたならば、贈与が現代でも機能することは可能かもしれない。しかしその際には、筆者も本書で指摘しているように、本当に贈与であるのかを反復して問い直すことが重要となるだろう。

異邦人と接するときに、自分の固定された価値観を捨てることも贈与として本書では指摘されている。現代的な贈与の機会はむしろ増えていると捉えるなら、問い直しつつ自己を捨てること(つまり現在の時間的な観念を抜け出すこと)のチャンスはきっとまだまだ多いはずである。

エビデンスと保守主義的思考

たまには本職の医療の話でもしてみる。とはいえ、医療系の人間ならよく参照するであろう、最新のエビデンスをまとめたり和訳したりするような内容を書くつもりは全くない。それらは専門職にとって有益ではあるが、筆者の意見はなく退屈だからだ。

 

ある癌の終末期の患者を担当した際に、上司に「予後予測(あとどれくらい生きられると予想されるか)のスコアをつけてみよ」と言われた。調べるとPalliative Prognosis Scoreというものが出てくる。

かつての医療がどうだったかは分からないが、最近は何をするにしても「診断基準」「スコアリング」がやたらと登場する。これとこれとこれを満たすからナニナニ病です、スコアをつけると何点なので重症度はBです、などと。

 

こうしたスコアリングは医療の一般化には大いに貢献するのだろうが、正直目の前の患者が生身の人間だろうが作られた人形だろうが、同じ所見があればスコアは変わらない。その基準には、どの病気のものであるかによって、用いられる指標は当然ながら様々である。例えば、「体の所見」でこういったものが揃っていることを重視するものもあれば、「検査」でこうした数値が出ていることを重視する、というものもある。こうした基準は、一見ある疾患や病態の本質・真理を反映しているようにも見えるが、個人的には「人間の偏見を利用した暫定的指標」に過ぎないと感じている。この点に関しては後述しよう。

 

さて、上述の癌患者の予後予測としてのPalliative Prognosis Scoreだが、なんだこれ、と思うとともに、なんとなく安心したような気分になったのだ。

具体的な項目としては、「臨床的な予後の予測」「Karnofsky Performance Scale」「食欲不振」「呼吸困難」「白血球数」「リンパ球(%)」となっている。これらの点数の合計が一定より高いと予後は週単位、低いと月単位と予想される、というスコアである。Karnofsky Performance Scaleというのは、本人の日常の介助がどれほど必要かという評価なのだが、「臨床的な予後の予測」を除いた項目は検査や本人の話から評価可能であり、それぞれ1項目につき2.5点程度の点数が付く。一方、「臨床的な予後の予測」というのは、最大で8.5点をつけられる項目であり、なおかつ、これは医療者の主観評価に依っているのだ。この項目で8.5点を付けると、他の項目の合計で0.5点しか付かなくても、スコアの結果としては予後は週単位となる。

このスコアがどれほど有用かという議論をするつもりはない。しかし、あなたはどれほどの予後だと思うか、という項目に重点が置かれているこのスコアを見たときに、データばかり評価するスコアとは異質な印象があり、なんだか人間らしさを感じて安心したのだ。

 

これはおそらく、私の人間観に由来している。一つには、人間というのは本来的に不完全であると考えており、理性というものを根本的には信用していないこと。もう一つには、人間というのは結局のところ分からないということである。

スコアもエビデンスも診断基準も、全て人間の理性が構築したものに過ぎない。しかし世界が近代化した結果、あらゆるものを合理主義的に捉える動きが加速し、医療にもエビデンス重視の時代が到来した。現在の新薬は全て臨床治験を経てから採用され、データを積み重ねたものが採用されている。一方、あまりにも古くから使用されてきた薬剤にはエビデンスがないものもあり、もし現在の治験の流れを用いたならば動物実験の段階で有害性が出現して使用されなかったであろうものもあると言われる(もちろん人間に有害性がないため実用されている)。エビデンスの時代なら、本来はこれらの薬剤の有用性を臨床試験によって確かめるべきだろう。なぜそうされないかというと、経験的・歴史的に安全であると判断されているからである。

この考え方というのは、思考の方法論として政治的思想と対照的に比べてみると、本来の保守思想に近いところがある。すなわち、理性を重視して変化を推し進めるよりも、構成されてきた伝統や文化を重視する考え方だ。

先ほど、スコアやエビデンスは人間の理性が構築したものに過ぎないと述べた。では、それらを信用して用いないのかというとそうではない。エビデンスの時代に医療における統計手法が時間的経過とともに確立し、何が有効で安全であるかを多くの医療者が判断して合意の上で出版されるエビデンスには、過去の蓄積及び医療を構成してきた伝統的な思考が乗っているから信頼性があるのである。これには理性的な働きよりも伝統的解釈が占める面が大きい。

 

診断基準やスコアリングが定期的に改訂されるのはなぜかというと、それは新しいエビデンスの蓄積があるからなのだが、本来の保守思想というものには微小な修正や改変は不可欠である。最新の知見がガイドラインに反映されるのが遅れるのは、次回の出版年月の問題もあろうが、新たな知見がガイドラインの変更に耐えうるほどの信頼性を保っているかが重要となるのである。その信頼性が多数の合意の上に判断された際に改変されるものなのである。

 

ところで、こうした診断基準などを「人間の偏見を利用した暫定的指標」に過ぎないとしたが、その理由もここにある。本当の真理に到達したのならば、その内容が時々刻々と変化するのはおかしいのだが、科学というのは反証可能性を持つ仮説の集まりに過ぎない。医療が科学である限り、そうしたエビデンスは暫定的指標であり、エビデンス重視の時代であればあるほど、それらの指標は暫定的なものとして扱われる。

「人間の偏見」とした点に関しては、ガイドラインの項目を見ればわかるのだが、それらのスコアや基準が人間の解釈しやすい項目を並べて作られている、という意味で「偏見」と表現している。人間はものをありのままに捉えることはできず、そのために分割したりある視点のみを与えたりして、解釈しやすい形に変更する。血液検査の数値がいくつというのを基準とするのは、非常に明瞭でわかりやすい。その人間の実際の状態がどうであれ、採血を取ってデータさえ出れば一定の答えを得られるというのは人間にとっては都合が良い。目の前の多種多様な人々に対して血液データ一つで同様の評価を与えられるというのは、人間に都合の良いものからの視点、すなわち偏見に裏付けられている。

 

また、Palliative Prognosis Scoreの主観によるスコアの幅というのは、目の前の人間が今後どのような経過をたどるかなど分からないということに依っているようにも思える。たとえば、画像検査では明らかに癌が悪化しているのに、数日前まで呼びかけへの反応も乏しかった人が、やたら反応が良くなったことがある。認知症があり、反応にも乏しかったのに、私が何度か回診で会っていることを確かに覚えているのである。意外とあと数週間は持ちこたえるのでは、と思っていたら、突如数日後に状態が悪化したりする。

データの蓄積のみで人間の体を管理できないというのは、なんとなく感じるところである(もちろん顔の表情と聴診器1本のみでも管理できない)。人間というのはまだまだわからないという印象だ。

理解することとわかること

もう随分と前からあらゆる人が言っていることに違いないが、あまりにも頭でっかちな思考が良しとされる風潮が過ぎるのではないかと感じている。

 

理屈で腑に落ちることを「理解する」、感覚的・身体的に了解することを「わかる」と定義してみる。これは、よく聞かれる学習過程の話などではない。例えば、最初は意識して数式や英単語を覚え、そのうちに無意識に、手が動くように数学の問題を解けるようになる、ぱっと見で英単語の意味が浮かんでくる。これの前者を理解する、後者をわかる、と言っているわけではない。文字通り、身体として了解されるか、という意味で「わかる」と表現したい。

 

大学生のころ、うつ病患者に接したことがあった。重度のうつ病ではベッドの上でほとんど動かなくなるような状態になるのだが、患者の周りにはティッシュがいくつも置いてあった。「つばが飲み込めない」と言って、それを全てティッシュに取って捨てているのだった。何も唾が飲み込めなくなるような、胃腸の病気があるわけではない。その人は、とにかくつばが飲み込めないのだった。

 

これは、理屈の上では理解できる。うつ病の症状の一つとして、唾が口から先に流れていくのが機能的に障害されていると解釈はできる。だが、これが「わかる」だろうか。

普通、分泌される唾なんてものは、気づかないうちに口の中から下に流れて行っている。意識的に唾をため込んだとしても飲み込むことに造作もないだろう。この状況を見たときに、理解はできるがわからない、と率直に思った。

 

この理解することで分かった気になる人があまりにも多いのではないだろうか。文学では人間のわからない領域をあぶり出す。自然科学で様々なデータを集めて理解することはわかることではない。新型コロナウイルスの流行で、それを実感した人も多いのではないだろうか。

 

自然科学で人間のすべてをわかるのであれば、なぜ、これほどまで流行してしまったのか。流行から1年も経つのに、なぜ未だに制御できていないのか。あれほど感染者が少なかったと言われている台湾で、なぜ今になって感染者が急増しているのか。もちろん、感染経路を示して、こういう広がり方で感染が広がったなどの論理的な説明はできるだろう。だが、なぜ感染を防ぐことを徹底していて、感染の広がり方も説明できるのに、それを防げていないのか。それは、人間なんてわからないからである。

 

 

さて、話が少しそれてしまったが、東洋哲学や仏教思想では、本来、人間の身体と精神は不可分であると考える側面がある。陽明学知行合一や、仏教曹洞宗での只管打坐などである。認識と行動は不可分である、という認識が陽明学である。只管打坐とは、ただひたすらに座禅せよという教えであるが、それにより悟り(身体的な知)に到達できると考えているわけである。

ここではわかることの重要性が強調されている。なぜ仏教の悟りが言語化されないのか。悟りとはこういうものである、という説明があれば、腑に落ちるかもしれない。しかし、それは言語で説明できる領域、すなわち理解可能な領域ではないのである。これは身体的な知である。

 

こうした認識が欠如してしまうと、他社との対話の可能性は排除される。理性で人間が全て理解できるならば、SNSで情報を集め本を読んでいれば良いだろう。実際、それでは済まないのだが、それで済まされると思っている人が多いのではないだろうか。自分はそんなことはないと考えるならば、一度考えてみてほしい。

 

街中で傲慢に見える高齢者など、それをわかろうと思ったことはあるだろうか。

 

なぜ、高齢者は偉そうに店先で怒っているのか。確かに、恥などに関与する脳の扁桃体が縮小するから、で理解はできるだろう。だが、それを身体的にわかるか。少なくとも私にはわからない。しかし、それでわかることをやめてしまったならば、そこに対話の可能性は開かれない。実際、インターネットで高齢者が叩かれている状況を見るとよくわかる。叩いている人は誰も当人をわかろうとしていない。別にこれは高齢者に限った話ではない。たびたび「炎上」する状況を見てみれば、自分のわからないことは排除して、あくまで理解に即してものを語る人が多いのである(ひろゆきが持ち上げられている状況も同じである)。

 

かつての日本では、江戸時代の持続的な生活環境や、戦争で極限まで身体を追い詰められた経験が共有されていた。頭では理解できない、身体感覚としてわかる領域が共有されていたのである。しかし、そうした経験は消失した。今や仕事で情報をひたすら扱い、家に帰るとスマートフォンSNS、動画サイトから情報を得る時代になった。そこに五感を駆使する身体感覚は存在しない。

 

その反動として、近頃スポーツジムが乱立している状況をとらえることもできる。身体的な感覚を取り戻すため、仕事後に体を動かしてもがいているのである。もちろん、動かさないよりは良いだろうが、それでも肉体を理性で操作できるという認識からは脱却していない。室温、器具、空間、全て人間に管理された空間において、計画されたトレーニング、栄養摂取で理想の体型を手に入れようとする。

 

自己管理などと言われるが、人間の体などというのは管理できない。友人や恋人と食事に行く約束をしていた当日に、突然発熱し行けなくなる。突然自分の子どもが熱を出す。今まで筋トレで快感だった筋肉痛が、風邪で不快な痛みになる。人間の身体は管理できないのである。

 

では、その状況を脱却するにはどうすればよいか。それに答えをすぐに求めることそれ自体、理解するという偏見に固執しているのではないだろうか。

触ることと言葉と

気づくとまたブログを更新していなかった。書きたいテーマがあるわけでもないが、今回は「書く」という行為自体に意味を見出して、何かを表出してみたい。

 

今年は年末年始に連休を取ることができ、暇な時間がだいぶ多く取れて余計なことをいろいろと考えていた。考える行為自体はヒトらしさのある行為のような気がするので、悪いことではないだろうが、答えのない問いについて自問自答しているとだんだん気が滅入ってくる。特に自分のプライベートなことに関して考えていると、具体性が高いぶん、より陰鬱な気分になりがちである。そうした問題意識と社会との関連を考察する思考が社会学的想像力なのだろうが、トレーニングも積んでいない人間にはそんな思考には到達できない。

 

年末年始に時間はあるが外出は控えるという状況の中、本を買ってカフェで一人で読んで時間を過ごしていた。爆笑問題太田光の『芸人人語』が話題であったので、買って読んでいた。この本は雑誌の随筆を一冊にまとめたものだが、この人は言葉というものに本当によく配慮しているのだなと感じた。

よく、演劇や絵画、演奏、本などに「電気が走ったような」出会いをしたという体験を耳にする。私自身そうした体験をしたことはないが、その出会いがあること自体がそうした媒体の評価を高めることはない。その体験をした当人のその時の感受性が、そうした媒体と見事にはまった時にそのような感覚になるのだろう。当人にとって、個人的な歴史の中で衝撃的な出会いであったわけであり、歴史的な転換点として機能したものがそうした経験として語られるのである。

私自身、そこまで至るわけではなかったが、この本を読んでいて何か胸にぐっとくるような箇所があった。今読んでもその箇所がどこだったかはわからないが、何か「心に残った」ことは覚えている。おそらく何かやさしさに触れることができたのだと思う。

 

それから本を読んでは止めてを繰り返していたが、次に伊藤亜紗の『手の倫理』を読んでいた。道徳と倫理の違い、触ると触れるの差異などをお膳立てとして考察が展開される本である。私自身の仕事柄、人に触ることを許容されることが多く、そうした触る行為が他者にもたらす影響を知りたかった。また、プライベートな行為の中での人に触る・触れるということについて考えてみたかったのである。

終章の中で、介助とセックスについての記述がある。社会学者の前田拓也が、セックスの行為の時に介助に似ていると感じたことで興ざめしてしまったということが引用される。そして、「フレームの混同」というフレーズを用いてそれについて解説している。

「フレーム」とは、社会学者ゴッフマンの用語で、私たちが「これはどういう状況か」を理解するための認識の枠組みのこと。フレームが混同されるとは、「これは介助だ」というフレームで理解しているつもりの状況に、「これはセックスかもしれない」という別のフレームが入り込んできてしまい、状況の意味を一意に定義できなくなるということです。その結果、自分がいま何をしているのか分からなくなる、リアリティの混乱が生じます。(p.183)

そして、こうした混同が特に触る・触れる行為で起きるのが、身体の行為として共通しているからだと説明されている。行為としての距離感が、視覚や聴覚と比して短すぎるため、他の記憶を呼び覚ましやすいということであろう。しかしこれは、逆に他の記憶を呼び覚ますため、目の前のリアリティから遊離しやすいとのことであるが、それに関してはひとまず措くとしよう。

確かに、人に触る・触れる、触られた・触れられた経験というのは、根深いところで残っているものである。その経験を今思い出せと言われても出てこないが、ふとした拍子に思い出されることがある。

死に際した病人に、家族が手を握ったり顔を触ったりする場面に遭遇する。そうした行為は何によってもたらされるのかはわからないが、言葉をかけるよりもコミュニケーションとして機能する場合もある。まもなく息を引き取る、あるいは息を引き取った人間に対しては、そうしたコミュニケーションは生きている側からの一方的なやり取りでもある。触る、というのは同時に触られる行為でもある、にも関わらずである。それはすなわち、自分で感じたいという欲求の表れであり、強く残る経験として自分の中にとどめておきたいのであろう。そうした記憶から、後に「フレームの混同」により記憶が呼び覚まされるのを期待しているともいえるかもしれない。

人生の中で、セックスが重大な出来事の一つとして語られることが多いのは、この触れる行為の力強さに起因するのではないだろうか。それが大人へのイニシエーションだったり、人間としての幅を示すものであったり、語られる役割としては多様であるが、強烈な印象として残るのはやはり触れる感覚の強大さによるのである。乳幼児期に経験して以来の、相互的に人と綿密に触れ合う貴重な機会でもある。

 

一方で、人に強く突き刺さるのは言葉でもある。社会心理学では、少数派の意見が時間を経て他者の思考に影響を及ぼすことが述べられているが(『社会心理学講義』小坂井敏晶)、言葉の持つ力というのは触れる行為とは別に重大である。精神科医は基本的に話すことによって患者と信頼関係を形成するが、それは言葉の持つ力を知っているからである。学校でのいじめやネットでの誹謗中傷は時に人を自殺に追い込むが、それも言葉に起因する部分が大きい。

日食なつこは「ヒューマン」の歌詞の中で「何回言っても伝わらないで 使いこなせもしない言葉の爪 手入れもせずに振りかざして つけた傷跡を消す薬はない」と歌っている。


日食なつこ -「ヒューマン」MV(弾き語りver.)

 

言葉の持つ影響力は非常に強いが、そこには人間の距離感を無限に広く取る作用も持ち合わせている。触る行為が距離を取ることができない(ひもなどを通じることはあっても長距離は離れられない)のに対し、言葉は地球の裏側にでも届くことができる。しかし、相手の感情や求めるもの、体の内側に潜む状態、直接の体温や触感を得ることができる行為も触る行為である。

特に何を言いたいということもないが、触ることと言葉というのは対照的でありながら、人間に深くまで作用を及ぼすのである。

 

芸人人語

芸人人語

 
手の倫理 (講談社選書メチエ)

手の倫理 (講談社選書メチエ)

 

科学における客観的事実と当為

日本学術会議の一部の構成員の任命を菅内閣が拒否したことが大きなニュースとなっている。政府の方針では、任命拒否という法的プロセスの妥当性に対して判然とする説明はなされず、なぜか日本学術会議という組織そのものの在り方という方向に議論が進んでいる。今回の任命の問題と学術会議そのものの在り方の問題というのは、全く次元の異なる話であり、任命拒否の話題から明らかに流れが飛んでいるのだが、どうやらこの方針で進めるらしい。

 

世界の中で日本の科学分野は明らかに存在感を失ってきているのだが、どうも学問を軽視する方向に進める今回の流れに変化はないようで、このままでは今後に大きな影響を及ぼすだろう。今までも政府に対しては様々な問題で批判や疑惑があったが、今回の学術会議の方針に関しては質が異なる。一部政府機関としての学術会議 対 政府 という構図で、政府の方針が押し切られてしまうと、今後数十年の科学や学問に対する国の在り方を左右する転換点になりうる。私は今回の決定に対してしっかりと検証されなければ、日本の科学がこのまま衰亡するという方向にまっしぐらになると思えてならない。優秀な学者の国外への流出はますます加速しかねない。そうした重大な問題である。

 

さて、今回、いくつかの政府を擁護する意見をSNSで眺めていたら、「日本学術会議は本来の科学である『客観的事実』ではなく『べき論(当為)』を押し出しており、科学としての機関として機能していない」という意見を見かけた。それが一部の素人の意見であれば良いのだが、それなりに支持されていたため、この点に関して述べておきたい。

 

まず、おそらくこうしたツイートが出てくる背景として、自然科学は客観的事実を追及しているが、人文科学や社会科学は当為が先行しているという"イメージ"があるように思われる。

 

今回は、まず自然科学だけでなく科学一般に当為はつきものであることを述べ、その次に、自然科学、人文・社会科学の取る方法論の差異によってそうした誤解が生まれるという点について記していく。そして、そもそも戦略的に当為を論じることは学問的でないと言えるのか、という点にも言及していく。

 

例えば、アルツハイマー病の原因を探求する研究について考えてみる。

アルツハイマー病患者では一般的に、アミロイドベータ(Aβ)とタウ蛋白が脳に蓄積することが確認されている。Aβはその残基の数によりAβ40とAβ42があるが、アルツハイマー病ではAβ42の割合が高い。分解酵素としてネプリライシンがあり、これはAβを分解する働きを有する。このネプリライシンの発現を高める薬剤を開発できると、アルツハイマー病の治療として使えるようになる可能性がある。*1

上の記述を読むと、客観的事実のみを示しているようにも見えるが、そもそもこうした研究の前提として、「人間の神経科学の仕組みを明らかにすべき」だとか「アルツハイマー病を人類は克服すべき」という価値判断がある。まして、新たな薬剤により人類に害をもたらす可能性もあるが、それでもアルツハイマー病克服というベネフィットが勝るという判断により、実用化に向けて多くの研究は動いているはずである。もし客観的事実のみを提示するのが科学であるならば、そもそもアルツハイマー病の原因の研究はなされないであろうし、仮になされたとしても、「アルツハイマー病ではAβが増えている」「~~というプロセスでAβは増える」という事実を提示するに止めるほかなくなってしまう。そもそも人間の判断には価値判断がつきものであり、それが次の方向性を定めるものである。こうした研究の方向性を提示する組織として、学問の機関というのは必要になってくるわけである。

 

マックス・ウェーバーは、価値自由という概念を提示した。価値自由とは、「事実と価値をはっきりと分け、…社会科学は、あくまで事実を認識するためのものであり、それが善いか悪いかといったような評価(価値判断)をするべきではない…。このように、主観的な価値観から自由になること」*2とされる。ただし、「価値自由とは、個人は必ず特定の価値観を持ってしまうもので、それを自覚しないと、事実を冷静に見極めることができなくなるという警告」*3として作用する。すなわち、まずは自身が立脚する価値基準を認識することが求められるのである。その上で、事実をもとに当為判断を下すことはあるが、それをどう判断するかは政治にゆだねられるのである。学問が提示する客観的事実や当為判断そのものに対して、政治が介入してくるという在り方は正しくない。その提示をもとに政治的判断を下すことが政治の役割である。

 

自然科学は客観的であり人文・社会科学は恣意的であるような印象も世間では多いが、それは扱う対象の違いと、それにより立脚される方法が異なることによる。物理学では物体を相手にし、生物学では生き物を相手にする。繰り返し実験を行うことが可能な対象であり、それゆえに得られる定量的データも多くなるため、再現性という方法を採用することができる。同じ生物でも、ヒトが対象になると倫理などの問題があり、複数のヒトをラットと同じように薬を投与したり遺伝子をノックアウトしたり一部臓器を用いて実験を繰り返したりすることはできない。そのため、臨床研究では医学統計を用いて臨床研究を計画し、一部の人々で薬が投与された際の反応の結果が、どれほどマグレらしいかそうでないかを検証することが多い。臨床研究では有意水準を0.05と定めることが多いが、他分野では設定される数値は異なる。

ではこのように基礎研究とは異なる背景を持ってなされる臨床研究に対して、人文・社会科学が客観的でないと批判する人々は、臨床研究も客観的でないと批判するのだろうか。ここまで来ると、客観性という言葉の解釈に関わってくるが、あくまで客観性という観点から学術会議の問題を批判する人々には、より客観的にそれを示してもらいたいものである。

 

そもそも学問分野は当為判断を下すべきではないのか。C・ライト・ミルズは、「社会学的想像力」の中で次のように述べている。

もし民主的な歴史形成のなかで理性が自由な役割を果たすのであれば、その主たる伝え手の一つは間違いなく社会科学者でなければならない。民主的な政党と運動、公衆がないからといって、教育者としての社会科学者が自分たちの教育組織を枠組にしようとすべきではないということにはならない。その枠組のなかで、諸個人からなるそのような解放的な公衆が少なくとも最初は存在し、そして彼らの議論が促進され支えられるのである。*4

 本書は当時のアメリカにあった、体系化・理論化を重視する「グランド・セオリー」と定量的評価を重視する「抽象化された経験主義」に対する批判として書かれていることに留意する必要はある。だが、官僚制的に社会分析をするのみが社会科学の役割ではないということを喝破している。そして、「民主主義における社会科学の教育的・政治的役割は、個人的・社会的現実の適切な定義を展開して、それを受け入れ、それに従って行動する公衆と諸個人を啓発して支えることである*5」と端的に述べている。

 いま話題の言葉遣いをすれば、"政権に批判的であろうとなかろうと"、私的問題と公的問題につながりを見出して論述し、そしてそれを人々に訴えることが役割だということになるだろう。その論述が客観的かどうかは学問的判断に委ねられるだろうし、それが社会的に必要となれば政治的判断が下るであろう。

 

 

ある学問が客観的でないという意見に対して、他分野は客観的と言えるのか、当為的判断は下っていないと言えるのか、そして当為を学問は述べるべきでないのか、それらについて私見を述べた。

私は、今回の学術会議の問題に関しては、批判を続けるべきであると改めて述べさせてもらう。

*1:岩田修永,西道隆臣. アミロイドβペプチド代謝アルツハイマー病.日薬理誌 2003. 122; 5-14

*2:香月孝史. 価値自由. 社会学用語図鑑. プレジデント社 2019. p.66

*3:同. p.67

*4:C. Wright Mills. The Sociological Imagination. 伊奈正人, 中村好孝訳 筑摩書房. 2017. p.319

*5:同. p320-321

映画『レナードの朝』感想

またしばらくブログを更新していなかった。大して面白いことも書けないだろうが、久しぶりに映画を見たのでその感想を。

 


レナードの朝 - 予告編

 

以前から名作の存在は知っているが、突発的にその作品を見てみたくなることがある。今回、映画自体久しぶりに見たのだが、『レナードの朝』はそういった類の作品である。

この作品は、オリバー・サックスというイギリス出身でアメリカで脳神経科の医師として活躍した人物の著作を元に作られた映画である。

この作品の核となる疾患は嗜眠性脳炎という疾患であり、1920年代頃に一定数の患者が見られたものらしい。らしい、というのは、大学の講義でも実臨床でも(非常に少ない経験年数だが)、目にしたことがないからだ。

映画を見ると、現在では精神科が専門で扱う症例と、神経内科が扱う症例が、神経科として同じ病棟に入院している。これは時代的な背景によるものか、日本と違う専門の分け方によるものかはわからない。現在では嗜眠性脳炎神経内科が扱う疾患になるだろう。また、この映画で登場する医師の雰囲気もどちらかというと神経内科医らしさがある。

 

人とのコミュニケーションが苦手そうなセイヤー医師(ロビン・ウィリアムズ)が、研究職のポストと思い赴任した病院で神経科の臨床医を任される。最初は戸惑いながらも懸命に臨床に励む姿はなんとも感慨深い。そこで、非典型的アルツハイマー病と診断されていた女性を診察し、普段は意思疎通が困難で動作も緩慢であるにも関わらず、落とした物を俊敏にキャッチするという所見に気付く。同様の所見のある複数の患者に共通する嗜眠性脳炎という疾患に目を向け、動作が緩慢であったりほとんど動かなかったりするのは、振戦が極度に進行したためと考え、それに効果がありそうなL-dopaを投与することを試してみる。そこで最初に投与された患者が、レナード(ロバート・デ・ニーロ)であった。

 

さんざん各所で書かれているであろうが、登場する役者の神経疾患の症状の演技は目を見張るものがある。前半の患者のパーキンソン症候群(パーキンソニズム)の表現、そして後半のデニーロによるジスキネジアの動きはとても良くできている。もちろん、神経内科の専門医からすれば、実際の動きと違うと言うかもしれないが、映画の視聴者からして演技と思わせない巧みさは十分にある。

パーキンソン症候群は一般に四大症状として、無動、固縮、安静時振戦、姿勢反射障害が挙げられる。このうち、嗜眠性脳炎の患者の演技として無動、姿勢反射障害が表現されていた。また、他に、独特の前傾姿勢、すくみ足、足元の線があると歩きやすくなるなど、実際の症状の表現があり、妙な脚色は抑えられたものであった。

L-dopa投与で一時は回復したレナードに再度症状が出現する描写では、ジスキネジアが表現されている。一般に、パーキンソン病が進行するとL-dopaの効果時間が短くなり、症状に変動が起こるwearing off現象というのが出現するといわれる。この映画でレナードに出現している、髪をとかしながら手が大きく揺れる、女性と話しながら顔を突然しかめる、歩きながら腕がくねくねと動く、などの動きはジスキネジアの表現と考えられる。

 

と、ここまで演技の巧みさを実際の疾患の症状と併せて書いたが、この映画で印象深かったのはそれよりも、これらの患者がいったいどんな気分でいたろうか、そして、セイヤー医師はどんな気分だったろうか、ということである。実際の原作のサックス医師の著作を読めばもちろん理解できるだろうが、今回はこの映画作品として勝手にいろいろ考えてしまった。

数十年間ベッドから動くことができなかった人々が、突如として身体の自由を取り戻す感覚というのは想像するには難しすぎる。人間は自分の手足を自由にコントロールでき、基本的には体の大きな不調を抱えずに暮らしている。風邪などで関節痛などが出現した際に、初めて自分の腰や腕の存在が意識される。こうしたときに人は、自分の身体は自分でコントロールできない感覚に至る。それが悪化すると、全能感の喪失として現前してくる。

あるとき、全能感を喪失した人々が数十年間に渡って身体の自由を奪われ、それが突然回復した時の心情はいかなるものか。そしてほんのひと時だけ「人生」を謳歌し、それがまた去っていってしまった時の絶望感はどれほどだろうか。

レナードが恋した女性と病院の食堂で話すシーンで、レナードは「これで"さよなら"だ」と言って立ち去ろうとする。このセリフは、自分から身を引いて女性と会うことをやめるという意図もあろうが、私には、再び病気の悪化により「人生」を終えなければならないという痛切な予感に思える。

人との意思疎通や自分の身体性を喪失することは、社会的動物である人間としての死を意味することに等しいかもしれない。もちろん、その時にその人は実際に何を考えているのか、ということはその人自身にしかわからない。したがってそのような断定は決してできず、あくまで予想にすぎない。だが、獲得した身体を失っていく恐怖や絶望感というのは想像してもしきれない。

一方で、一度は人生を与えられることができると思ったセイヤー医師も、薬剤が効果を得られず再び悪化していく患者を見る心情というのはどれほどだったろうか。

 

日々の仕事の中で、高度の認知症高齢者で意思疎通が困難であったり、麻痺があったりする人物と接すると、時間がなくて表面的なやり取りしかできない場合がある。まして、認知症患者では、どうせ理解できないと思ってしまっていることもある。だが、本当に理解しているかどうか、情動があるのかどうか、などは当人にしかわからない。当人がどんな世界を見ているのかはわかりようがない。どれほどAIの技術が進歩しようが、予想は立てられても観測することは困難であろう。

こうした心優しい人物がいるという、仮に創作に過ぎなかったとしても、その認識で少しでも優しく接せられる人間になれたら、と考えずにいられない。

 

とても綺麗な曲。

Dexter's Tune

Dexter's Tune

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