フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

理解することとわかること

もう随分と前からあらゆる人が言っていることに違いないが、あまりにも頭でっかちな思考が良しとされる風潮が過ぎるのではないかと感じている。

 

理屈で腑に落ちることを「理解する」、感覚的・身体的に了解することを「わかる」と定義してみる。これは、よく聞かれる学習過程の話などではない。例えば、最初は意識して数式や英単語を覚え、そのうちに無意識に、手が動くように数学の問題を解けるようになる、ぱっと見で英単語の意味が浮かんでくる。これの前者を理解する、後者をわかる、と言っているわけではない。文字通り、身体として了解されるか、という意味で「わかる」と表現したい。

 

大学生のころ、うつ病患者に接したことがあった。重度のうつ病ではベッドの上でほとんど動かなくなるような状態になるのだが、患者の周りにはティッシュがいくつも置いてあった。「つばが飲み込めない」と言って、それを全てティッシュに取って捨てているのだった。何も唾が飲み込めなくなるような、胃腸の病気があるわけではない。その人は、とにかくつばが飲み込めないのだった。

 

これは、理屈の上では理解できる。うつ病の症状の一つとして、唾が口から先に流れていくのが機能的に障害されていると解釈はできる。だが、これが「わかる」だろうか。

普通、分泌される唾なんてものは、気づかないうちに口の中から下に流れて行っている。意識的に唾をため込んだとしても飲み込むことに造作もないだろう。この状況を見たときに、理解はできるがわからない、と率直に思った。

 

この理解することで分かった気になる人があまりにも多いのではないだろうか。文学では人間のわからない領域をあぶり出す。自然科学で様々なデータを集めて理解することはわかることではない。新型コロナウイルスの流行で、それを実感した人も多いのではないだろうか。

 

自然科学で人間のすべてをわかるのであれば、なぜ、これほどまで流行してしまったのか。流行から1年も経つのに、なぜ未だに制御できていないのか。あれほど感染者が少なかったと言われている台湾で、なぜ今になって感染者が急増しているのか。もちろん、感染経路を示して、こういう広がり方で感染が広がったなどの論理的な説明はできるだろう。だが、なぜ感染を防ぐことを徹底していて、感染の広がり方も説明できるのに、それを防げていないのか。それは、人間なんてわからないからである。

 

 

さて、話が少しそれてしまったが、東洋哲学や仏教思想では、本来、人間の身体と精神は不可分であると考える側面がある。陽明学知行合一や、仏教曹洞宗での只管打坐などである。認識と行動は不可分である、という認識が陽明学である。只管打坐とは、ただひたすらに座禅せよという教えであるが、それにより悟り(身体的な知)に到達できると考えているわけである。

ここではわかることの重要性が強調されている。なぜ仏教の悟りが言語化されないのか。悟りとはこういうものである、という説明があれば、腑に落ちるかもしれない。しかし、それは言語で説明できる領域、すなわち理解可能な領域ではないのである。これは身体的な知である。

 

こうした認識が欠如してしまうと、他社との対話の可能性は排除される。理性で人間が全て理解できるならば、SNSで情報を集め本を読んでいれば良いだろう。実際、それでは済まないのだが、それで済まされると思っている人が多いのではないだろうか。自分はそんなことはないと考えるならば、一度考えてみてほしい。

 

街中で傲慢に見える高齢者など、それをわかろうと思ったことはあるだろうか。

 

なぜ、高齢者は偉そうに店先で怒っているのか。確かに、恥などに関与する脳の扁桃体が縮小するから、で理解はできるだろう。だが、それを身体的にわかるか。少なくとも私にはわからない。しかし、それでわかることをやめてしまったならば、そこに対話の可能性は開かれない。実際、インターネットで高齢者が叩かれている状況を見るとよくわかる。叩いている人は誰も当人をわかろうとしていない。別にこれは高齢者に限った話ではない。たびたび「炎上」する状況を見てみれば、自分のわからないことは排除して、あくまで理解に即してものを語る人が多いのである(ひろゆきが持ち上げられている状況も同じである)。

 

かつての日本では、江戸時代の持続的な生活環境や、戦争で極限まで身体を追い詰められた経験が共有されていた。頭では理解できない、身体感覚としてわかる領域が共有されていたのである。しかし、そうした経験は消失した。今や仕事で情報をひたすら扱い、家に帰るとスマートフォンSNS、動画サイトから情報を得る時代になった。そこに五感を駆使する身体感覚は存在しない。

 

その反動として、近頃スポーツジムが乱立している状況をとらえることもできる。身体的な感覚を取り戻すため、仕事後に体を動かしてもがいているのである。もちろん、動かさないよりは良いだろうが、それでも肉体を理性で操作できるという認識からは脱却していない。室温、器具、空間、全て人間に管理された空間において、計画されたトレーニング、栄養摂取で理想の体型を手に入れようとする。

 

自己管理などと言われるが、人間の体などというのは管理できない。友人や恋人と食事に行く約束をしていた当日に、突然発熱し行けなくなる。突然自分の子どもが熱を出す。今まで筋トレで快感だった筋肉痛が、風邪で不快な痛みになる。人間の身体は管理できないのである。

 

では、その状況を脱却するにはどうすればよいか。それに答えをすぐに求めることそれ自体、理解するという偏見に固執しているのではないだろうか。