フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

Zoomがもたらす方向性の転回としての目の拡張

外出自粛が続き、暇な時間が続いている人が多いためか、新型コロナウイルス感染症が落ち着いた後の世界について語ることが増えてきたように感じる。ポストコロナなる言葉まで登場してきた。

 

確かに暇を持て余した夢想でもあるかもしれないが、とはいえ外出自粛によって普段見る景色と全く異なるものを見るようになった。全く人のいない新宿の写真もそうであるし、テレビでも画面の中で画面が集まって人が語るという一昔前のSF映画さながらの光景が日常化してきた。社会の変貌は個人のエートスの変容をもたらし、コロナ収束後の世界は今までとは違ったものになる可能性は十分にあるだろう。

 

例えば、zoomによるオンライン会議や飲み会は、自宅での仕事の可能性を拡げたが、一方で他者の目線の私的な空間への介入を許してしまった。LINEでの既読通知機能は、震災での安否確認の目的を踏まえて追加されたとの話がある。社会に大きな影響を与える出来事の後には、コミュニケーションツールの変化が生じる。

「メディア論」で有名なマクルーハンは、技術・メディアは人間の身体の拡張であると表現した。印刷技術は人間の目の拡張、電話は声の拡張、といった具合に。こうした拡張は、発信者側の拡張を主として行われてきた。本であれば著者の言葉を不特定多数に、電話であれば発信者同士の声をお互いに届ける。

一方、LINEでの既読通知は方向性が異なる。メッセージの受信者は、望むか望まないかに関わらず、そのメッセージを受けたことが発信者へ通知される。受信者の行動に他者の目線が入る込む事態を引き起こした。

今回流行しているzoomは、既読通知がより先鋭化したメディアとも捉えられる。自宅というプライベートな空間に、ビジネス関係など他者の目線が強制的に入り込む。これはバーチャル背景を用いればプライベートが遮断されるというわけではなく、通話者が「そこにいる」ことが求められる点にポイントがある。本来であれば私的な時間・空間として担保される自室において、視覚情報を含めてその人がいるということを他者に強制的に発信される。

 

社会的距離をスローガンに掲げる社会において、我々は、発展したメディアを通じて今まで以上に私的領域に入り込むことを受容するように変貌してきている。良いか悪いかは別にして。

 

 

本来は医療従事者や県外者に対する差別と社会心理学だとか、テレビでもっともらしいことを語る"専門家"の背景にある大衆社会の誕生だとか、ポストコロナにおける新自由主義の見直しだとか、わからないことをわからないと受容する社会の必要性だとか、いろいろと考えていたのだが、一つのトピックでそこそこの分量になったため、今回はここらへんで。

熱量が冷めないうちに書きたい。ではまた。