フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

PSYCHO-PASS Sinners of the System Case.1『罪と罰』を見た感想

気づけば2か月以上ブログを更新していなかった。コメントもいただいていて、返信しなきゃなぁと思っていたのだが、どうも時間的に余裕がなくて後回しになってしまっている。

 

さて、1月25日より公開された三部作の映画PSYCHO-PASS Sinners of the Systemの第一作『罪と罰』を見てきたので感想を書いてみる。ちなみに、感想なのでネタバレはするが、特に考察などをするつもりもないのでゆるーく書いていく。

一応言っておくと、1期、2期、そして2015年の劇場版と、1度は見たが、まだ復習していないので内容がうろ覚えになってきていることには注意していただきたい。

 

さて感想に入る前に、 Sinners of the System って何だろうかと、大学受験レベルの英語力しかない脳みそで考えてみると、 sin とは罪のことで、 -er となっているので罪人だと考える。the system はシビュラシステムと考える。で、法的な罪では crime が使われるのに対して、 sin とは道徳・宗教的な罪を表す。of をふつうに所有・所属の of と考える。そうすると、Sinner of the Systemで、単に法的に人々を拘束する社会制度としてのシビュラシステムではなく、神格化された、あるいは道徳的指標となっているシビュラシステムに属する国民の中で罪を犯した者たち、といったニュアンスが含まれているのかもしれない。

だが、記事でのコメント(関智一、受け取った脚本を「しばらく読まずに熟成させた」―[第31回東京国際映画祭]『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System』舞台挨拶 | 作品情報 | CINEMA Life! シネマライフ|映画情報)では、

本作ではサブタイトルに「Sinners of the System」がついているが、その意味について塩谷監督は「サイドストーリー(SS)と掛けているところもある」と明かし、さらに「(これまでの作品よりも)もうちょっと絞ったところに焦点を当てたかった」と語った。

くらいの軽い感じの記述なので、アニメ第1期の槙島などのような大きなストーリーを描くのではなくて、個々に起こって公安局が対処した事件を描くくらいの意図しかないのかもしれない。

 

タイトルの話はそれくらいにして。

 

第1期では新たに公安局に入局した主人公の常守監視官が、新卒の未熟さから成長する過程を通して、シビュラシステムに対する疑いとそのシステムの中で公安の人間として正義を全うする葛藤が描かれていた。いわば既存のシステムに対する疑義の投げかけで終わっていた。

そして2期では、集団的サイコパスという概念が登場し、個人のサイコパス測定と異なる集団でのサイコパス測定を考える必要があるという投げかけで終わっていた。その集団的サイコパスというのが、社会は個人の集合では記述しきれないという現実社会でも通ずるところがあって面白いなぁと感じていたので、映画ではそこが掘り下げられるんだろうか、とちょっと期待していた。

だが、2015年公開の劇場版PSYCHO-PASSではそのへんを考えさせる内容がなかったように記憶している。

で、今回の新作を改めて振り返ってみると、なるほど2期の内容を踏まえて作られてるのかなぁという印象があった。

 

今回の舞台は青森の更生施設で、執行対象の人間を青森に送還するところから始まる(そういえば東北って全部農地になっていて、人は住んでいなかったのでは・・・?という素朴な疑問は忘れようWikiを調べ直したら東北ではなくて北陸の間違いだった)。その送還される人というのはその更生施設で心理カウンセラーをしていた夜坂泉だった。夜坂は、施設の管理者である辻飼が薬物と催眠療法によって更生施設の潜在犯をコントロールし、放射性廃棄物の処理をさせ、不要になったら殺すということを行っているという告発をしようとしていた。そして潜在犯の子どもである久々利武弥に打たねばならない薬物を自らが犠牲となって打ち、それによって攪乱状態になり東京で公安に捕まった、というそんな話だったと思う。

 

この更生施設の潜在犯個人にドミネーターが向けられても執行対象となる数値は出さない、にも関わらず、集団の中で個人の色相を濁らせる判断された対象には集団として強烈な敵意を向きだしにする。本来ならば執行対象の数値を示さねばならない行動を取る個人が群衆となり、暴力行為に加担している。集団的サイコパスが導入されているならば群衆の行動が変化した時に色相が濁って良いはずだが、そうなっていないのはこのシステムがザルなのか、それともダブルスタンダードなのか、いずれにしてもせこいシステムだなぁと感じる。

第2期の最後で、集団的サイコパス測定が行われるようになると、集団の色相を濁らせる個人を炙り出す魔女狩りが行われるようになるとシビュラシステムは懸念するわけだが、それがこの施設で起こっている。この施設では問題があると判断された個人の排除が、個々の潜在犯の色相を濁らせるという理由で行われていることから、集団としてのサイコパスというのは実社会では実装されておらず、またその概念自体もシビュラシステムレベルで保持されたままなのかもしれない。

2期でシビュラシステムは、システム自体のサイコパスを上昇させる要因となっている脳をシビュラシステムから排除した。そして集団的サイコパスの導入に非常に否定的だった。だからこそ、この施設で行われていることが公にされることを避けたい意図があり、送還という異例の措置を取ったのだと解釈できる。

ただ、この施設管理者である辻飼は、シビュラシステムの"超"合理的思考を理解しているというよりは、集団を自分自身が管理しているという陳腐な欲求によって突き動かされていた感じがある。最後はドミネーターで執行されてしまうわけだが、これもシビュラシステムに利用されていた最期だと考えると、管理化でシビュラシステムの思惑通りに動かされている人間の情けなさが描かれているように思う。

 

今回の映画では、常守監視官は脇役で、メインは霜月監視官だったわけだが、2期でシビュラシステムの実態の前に迎合し拍手するような描写があった。システム下で職務を全うしながらもシビュラシステムに疑いを持つ反体制的な常守監視官と、体制に迎合する霜月監視官という印象が私の中にはあった。

だが、映画の最後のほうで、青森の更生施設を作ったやり手の国会議員、烏間明(彼もまた、公安局局長の禾生と同じように、人間の外見を装ったシビュラシステムのような描写がある)に対してビンタをする場面で、霜月監視官には彼女なりの正義が存在するのだと感じて、印象が変わった。結局、東京の施設で暮らせるようになった久々利武弥に、なぜ助けてくれたのかと尋ねられた霜月監視官は「"正義"の味方だからよ」というようなことを言って映画は終わるが、現状に従うだけではない正義を提示されたような意図を感じた。

 

 

と、こんな感じだろうか。見終わった直後は、うーんやっぱり映画よりアニメのほうが面白いかなぁと思っていたが、改めて映画を振り返ってよく考えてみると、やっぱりPSYCHO-PASSは面白いという感じがした。あと曲とOP,EDがかっこよすぎる。

1期、2期を復習して世界観に入り浸ってからまた映画見たい。ブルーレイとか欲しいが金がない。