フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

『贈与の系譜学』(湯浅博雄、講談社) 感想

半年間もブログを更新していなかった。気がついたら2021年も終わるので、何か最近読んだ本の感想でも書いてみよう。

 

贈与の系譜学というタイトルを見て、モースで有名な「贈与」に関して、人類学的な視点などを系譜的に追う内容かと考えていたが、実際には違っていた。筆者の問いとしては、「純粋な贈与というのは可能なのか」という主題を追いかけていき、最終的に贈与とも交換とも取れない浮遊した領域を提示する。

 

筆者は最終的に交換の関係性に取り込まれることを「エコノミー」と表現する。

 

資本制や市場原理に基づいた生産、交換・流通、消費、再生産というエコノミー体制のなかで生活し、多くの他の人たちと関わり合っている。(p.13)

 

今まで贈与がどのように捉えられてきたかを、アリストテレスからカント、ニーチェ、モース、バタイユヘーゲルランボーなどを引用しながら考察されていく。各章ごとに考察が深められていくので、全体で感想をまとめるのがやや面倒なのだが、個々の個所ではそうかと感じる点が多かった。

 

例えば、ニーチェアリストテレスを引用しながら、正義の観念はエコノミー的活動と結びついていることを指摘する。

まず古代ギリシアで、正義、正しさという観念が、一般的に言って、法に適っていること、均等であること、等しいこと、共約しうるものであることと結ばれていたということが理解できる。(p.49)

アリストテレス自身の思考も、利得、損得など「交易に由来する名称」に、当然のように基づいており、エコノミー的活動とその心的付属物から出発して、正義=正しさの観念を考えている。(p.60)

 

マックス・ヴェーバーによる、プロテスタンティズムエートス、心的志向性が資本主義形成の一端となったことを考えると、エコノミー的な交換概念は近代になって出現したと個人的には考えがちだったのだが、古くから社会の中で存在してきたと気づかされる。資本主義社会に交換は内包されるが、交換の存在する社会は資本主義社会とは限らないため、考えてみれば当然なのだが、そのことを暗黙のうちに組み合わせている自分に気づかされた。

 

それはそれとして。筆者は論を進める中で、純粋な贈与というものは存在しないのでは、という問いを立てる。まず、キリスト教の供儀は、こうした交換概念に基づいた正義論を脱却するものとして捉えることができる。

…古代社会の正義=正しさの観念は、原初の時代から存在した<借りを負う、貸しを持つ>という活動(およびその心的付属物)から派生した面を持っている。つまり元に戻す義務、正しさを復原する義務であり、恩=借りは必ず返す義務である。それゆえ、過ちや罪…は必ず償われなければならず、「無償で」赦されることは考えようがない。…初期キリスト教はある意味で、古くからの正義=正しさの観念を破り、のり越えようとしたのである。(p.99)

しかし、自己犠牲としてのキリストの受難は、一見供儀に見えるのだが、突き詰めるとその受難に応えるための負債を人間は負うこととなり、そのうちにエコノミー的次元に取り込まれてしまう。

 

様々な引用をしながら、純粋な贈与について考察すると、最終的には交換の観念を除外することはできず、純粋な贈与に到達できなくなる。それを筆者は死との類似性から論じる。死の経験は死ぬ瞬間まで達成されず、死に近づくほどに死から遠ざかっていく。そして、贈与に関する疑義を反復することに意義を見出す。

 

もう一点、個人的に興味深かった点は、贈与が量的な時間観念<クロノス>の次元を脱却する性質を持っているという点である。

自己犠牲、贈与という出来事は、すなわちクロノス的時間が破れて、そうした裂け目の時間に、時間の本来的次元が開かれると同時にーそのとき初めてーかろうじて<起こる>かもしれない出来事は、それがほんとうに生きられるためには、どうしても<根源的な模擬性>の効力とともに経験される面を持っていること、言いかえれば、つねに<反復的な仕方=模擬的なやり方で生きられる部分が不可欠である>…(p.189)

こうした通常の時間観念を打ち破る側面があることは宗教的な儀式と関連があり、動物を犠牲に殺す瞬間を見る恍惚に、通常の時間的な観念を脱して質的な時間を生きる瞬間が見いだされる。

そう考えてみると、宗教というのは通常の時間観念の脱却と、贈与の側面がほぼ必出することの意味が理解できる気がしてくる。キリスト教、仏教、イスラーム、いずれでも「与えること」はテーマとして必ず登場してくる。

仏教的世界観では、根本には修行によって現在の世界観を脱却することを目指す側面がある。分け与えることが、単なる善き行いに留まらない面があるという考察のきっかけになりそうである。

 

よく聞く議論であり個人的にもときどき考えるテーマではあるのだが、本書を読んで、現代の社会で死を目の前で見る機会がないことによって実はこうした到達しようとしても到達できない観念というもののリアリティから疎外される状況を生み出しているのではないか、とも考えた。

科学的思考が中心となり、質的な時間観念を感じる機会がほぼ消失した現代では、量的な時間観念の裂け目を実感する機会はほとんどない。かつて自宅で親族が亡くなっていた時代には、死に至る過程(すなわち死そのもの)を目の当たりにする機会があり、自身が最終的に経験するまで到達できない次元にリアリティが存在した。しかし、現在では死んだ状態(すなわち死"後")の人を見ることはあっても、通常の生活で死の過程を見る機会はなくなった。さらに、かつて存在した祝祭もどんどん喪失しており、非日常を身を持って体感する機会は滅多になくなっているわけである。

そうした時間的な裂け目を実感した経験がそもそもないのであれば、贈与的な次元にそうした恍惚とする側面があっても、そこに魅力を見いだせないのではないか。すなわち、現代の客観的事実しか事実として存在できない社会では、クロノスを抜け出すこと自体に魅力がないのだから、贈与にも魅力はないことになる。

 

一方で、コロナにより特に若い世代で寄付などを行う人々が増えたとの話もある。そうした質的な時間経験を、贈与自体に見出すことができたならば、贈与が現代でも機能することは可能かもしれない。しかしその際には、筆者も本書で指摘しているように、本当に贈与であるのかを反復して問い直すことが重要となるだろう。

異邦人と接するときに、自分の固定された価値観を捨てることも贈与として本書では指摘されている。現代的な贈与の機会はむしろ増えていると捉えるなら、問い直しつつ自己を捨てること(つまり現在の時間的な観念を抜け出すこと)のチャンスはきっとまだまだ多いはずである。