フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

教養主義の没落 感想

前回のエントリで同書の内容についてまとめてみたが、今回は感想を書いてみたい。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

 

面白い本です、これ。記述の仕方がどれだけ社会学的なのかは私にはわからないが、質的・量的なデータを両方示しながら、明確に方向性を示しており、門外漢の私でもスッと読むことができた。

 

この本が出版されたのは2003年であった。その年、テレビでは深夜番組だった「トリビアの泉」がゴールデンタイムに進出し、27%もの視聴率を獲得した。1990年代に教養主義は大衆的教養主義として広がりかつての教養主義は衰退しきっていたが、2003年にはついに知識が「素晴らしきムダ知識」としてエンターテイメント的に消費される時代が到来した。ある意味で教養主義が「終わった」ような感覚が筆者にあったのではなかろうかという感じがする。

また、大衆的教養主義が完成したのが1990年代だとすると、その頃大学生だった人たちは、現在50歳代であり、社会の中枢にいるはずである。マルクス主義教養主義が衰退し、教養がじゃまもの扱いされるキャンパスライフを過ごした人たちも、いま出版社などに就職しているはずである。近ごろ、右傾化と言われているが、書店で嫌韓本や「日本すごい本」が流行っているのを見ると、マルクス主義教養主義に馴染みのない人たちが薄っぺらい本を出版させているのではないかという穿った見方ができなくもない。

 

さて、かつては人格形成のためにおこなわれていた読書から、書店には即時的なビジネス書や軽めの新書であふれている。趣味として社会学系の本をのんびりと読んでいる私だが、大きな書店で「社会学」のコーナーがあるところまで行って初めて「専門の本」というものを目にした記憶がある。小さな書店や、大きな書店でも目に付くところにある本には手頃な本が多く、大衆的教養主義となった今、むしろ本来の学問は素人にはより目の付かない、まさしく「奥の院(p.86)」を維持しているとも思える。

しかし、一方で、中学・高校レベル理社科目の「学び直し本」や、池上彰佐藤優の「教養本」も書店でよく見かける印象がある。教養を大衆的に消費する流れの延長に過ぎないのか、それとも大衆化した反動なのか。では本格的な書籍が売れているかというと、記憶に残っているのはピケティの『21世紀の資本』が話題になった程度である。やはり、安易に手にできる「教養っぽいもの」の消費が盛んになっているのみで、大衆的教養主義の延長に過ぎないという印象がある。

 

では今後どうなるのか。教養で人格形成をするという時代にはならず、やはり断片的な知識だけがひたすら消費される時代が続くように感じる。

例えば。文部科学省の資料によれば、世界で論文の数は増え続けている。それも加速的に増えている。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2012/05/24/1321315_01.pdf

そうなると、古典を読んで自分の人格形成を・・・と言っている暇はなく、古典を読むのはせいぜい自分の専門分野に限った話だけになり、かつての教養主義復権はないように思われる。かつて大学から企業就職に順応する学生の態度として「イッパンキョウヨウ」の単位を取るためのものになってしまった教養は、今日では溢れる情報に対処するために、パッと手に入れられる教養というものに変化したのかもしれない。

 

いま、情報の量の増加により専門化が進むと、人格形成のために教養を学ぶ暇がなくなる、という話をしたが、実はそんなことは90年近く前に、オルテガ・イ・ガセットが「大衆の反逆」(ちくま学芸文庫)の中で批判している。

専門家は自分がたずさわっている宇宙の微々たる部分に関しては非常によく「識っている」が、それ以外の部分に関しては完全に無知なのである。(p.159)

 してみると、90年前から科学者や医者などの専門的な人間が、自分の関わらない領域については無知であるという指摘がある以上、専門化の進んだ人間は情報の多寡によらず専門外の分野をディレッタンティズムとして寄せ付けない傾向があるともいえる。必要がないから、といって人格形成に教養を求めないのは、慢心した態度なのかもしれない。

 

 

いつの時代も教養のない大衆を残念に思う風潮があったようにも見えるが、日本の教養主義の変化を精緻に描出した本書は面白かった。