フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

ふじみ野市立てこもり事件から、医療者と患者間での前提の違いを考える

1月27日に埼玉県ふじみ野市で在宅医療をしていた医師らを人質に取って立てこもった事件が起こり、医師は散弾銃で発砲され死亡、理学療法士は重傷を負うなどの結果となった。容疑者は「母が死んでしまい、この先、いいことがないと思った。自殺しようと思った時に先生やクリニックの人を殺そうと思った」と供述しているとのことである*1

 

事件についての尚早な言及は事後的な検証がなされるまで避けるべきだろうが、今後の法的な整備に影響を及ぼしそうである。あまりこのニュースについて知らなかったため、なんとなくテレビを見ながら「おっかないな」と思っていたが、どうやら誠実な対応をされていた医師が殺害されたようで身につまされる思いである。

 

この事件に対して、制度的な整備をすべきという論点をいくつか見かけたため、以下に整理してみたい。

 

1.容疑者の人格に原因を求める論*2

2.老々介護など社会的背景に原因を求める論*3

3.散弾銃の整備など、今回の事件の特異性から離れて凶器の規制を主張する論

 

 

まず3から言及すると、こちらに関してはアメリカでの銃乱射事件が起こるたびに銃規制について議論になるのと同様に、使われた凶器そのものについて規制を求める声というのはたびたび上がる。日本の散弾銃の扱いについて詳細には調べていないが、この点の整備の論はさほど本質をついていない。学校での殺傷事件でナイフが用いられたからと言ってナイフを日本全体で規制できないように、凶器の規制をしても次なる凶器が使用されるに過ぎない。

 

さて、1についてまず少し考えてみる。

容疑者の心的な異常性に説明を求めるならば、今後の対処として事件を起こしうる、いわゆるモンスターペイシェントを早期に発見し、有効な心理学的・精神医学的介入を行うという手段があるだろう。

うつ病が疑われる患者にQIDS-Jなどのスクリーニング検査があるように、モンスターペイシェントに適応可能なスクリーニング検査を考案するという手段は想像される。ただ、こうした人たちは医療者からの提案に非協力的であることが想定され、そもそもスクリーニングを行えない可能性がある。そうであれば、医療者側がモンスターペイシェントであると主観的に感じた場合に、公的な介入を要望するという方法が現実的となるだろう。

しかし、モンスターペイシェントへの対処が社会的に整備されているとは言い難い。個人的な経験として、どれほど説明を尽くしても理解されない患者や患者家族というのは確かに存在する。医師の説明が不十分であるという面もあるだろうが、多くの医師が日々患者に説明をしていて大きな問題となっていないことを考えると、医師の説明のみに原因を帰することもできない。やはり患者や家族自身の資質に関わってくる面がある。この点に関して、私は医療者と患者とがそれぞれ有する「前提」の違いがあると考えている。これに関しては後程言及しよう。

 

ただ、個人の資質の問題としてモンスターペイシェントを理解し、対処法について社会的な整備を進めたとしても、最初に接点を持つのは医師や看護師など医療従事者であることに変わりはない。そして、医療現場はしばしば時間制約のある場面も多く、特定の患者のみに時間を割けないことがある。例えば、救急医療の現場に理不尽な要求をする患者が来院した際、今すぐ対処が必要な患者がいるのに、他の患者に時間を割かれてしまうという場面がある。こうした時の医師としての対処法は教育されることはなく、実践の中で対応を学んでいくのが現状である。

社会的な整備の優先度としては、時間的制約が多い場面での対応が先であり、その次に、時間的余裕のある一般外来や入院患者の対応という順になる。

時間的制約の多い場面では、警備や警察の介入など実効力を伴う対処しか現時点ではないだろう。暴力や暴言を受けていない場面でどのレベルであれば介入を必要とすべきか、今後は議論の必要がある。

時間的余裕のある場面では、すぐに外部の実効力を必要としないで医療者自身で対処可能なことはある。だが、それにより医療者の労働時間に影響が出ることはしばしばあり、こちらもやはり介入が必要であろう。最初にモンスターペイシェントと対することが多いのは医療者であることは避けられないが、2回目以降の外来や入院での対応の際には、公的な対応の余地があるだろう。この点も今後は議論の必要がある。ただ、患者の気質として説明可能な範囲のこともあり、過度にモンスター化させてしまう懸念もありうる。これに関しては、モンスターペイシェントという存在が社会的に認められている以上、医療者の対応を医学教育の中に取り入れるなど医療者側の教育整備があって良い。

 

 

続いて2に関して言及するならば、これこそ老々介護などの現実的な問題に対する社会的な整備の余地がある。そして、おそらく今後の討論番組などで議論となるのはほとんどこの点だろう。なぜならば、現場を見ずに巨視的な視点から議論を進めやすいからだ。

老々介護や必要な介護制度にアクセスできないなどの状態を危険因子として、そうした因子を持つ人々に積極的に介入することで、今回のような事件を最小化できると予想される。だが、現実にそうした境遇に立たされている人々のうち今回のような事件化する人はごく少数であると予想されることを考えると、社会的背景のみに問題の原因を求めるというのは本質的ではないだろう。

 

 

さて、先ほどの「前提」について言及してみる。ベイトソンの論を引用してみる。

芸術も、宗教も、商業も、戦争も、そして睡眠までもがそうなのだが、科学もまた前提 presuppositions [思考以前の思い込み]の上に成立している。…学生たちの思考に何とも奇妙な溝があるのを見せられてきた。それは彼らがある種の思考のツールを欠いていることによる。この傾向は初等・高等、文系・理系、男子・女子の区別なく一様に現れる。彼らにかけているもの――それは前提の認識なのだ。*4

ベイトソンも言及するように、この前提の有無というのは知的な高低に依存しない。その人が今までに拠って立ってきた価値観や経験に裏打ちされた、理解の前段階の思い込みなのである。合理的な思考は非合理的なものに裏打ちされているように、論理的であるというのは「論理的であるという感覚」であるというように、前提というのは理屈で説明がつく領域ではない。

こうした前提の齟齬については、卑近な例を挙げれば新型コロナウイルスに関するマスメディアでの報道と医療者の理解を見てみればわかる。医療者がアクセスするであろうUpToDateやNew England Journal of Medicineなどのエビデンスとしての質が高い情報源よりも、とある患者の症状や一部の論文などのセンセーショナルな話題をしきりにメディアが取り上げている現状は、まさしく前提の違いが浮き彫りになった例である。医療に限らず、生まれながらイスラム教徒ととして育った人に、日本人がわびさびの文化を説明してもなかなか理解されないだろうことを考えてみても良い。

 

では、具体的に、医療者と患者ではどういった前提が共有されないのか。医療者と患者家族の間で本来共有されねばならない前提として、「最善の医療が受けられるとは限らない」という点があるだろう。医療過誤訴訟で争点となるのは、当人の受けた医療が最善であったかということではなく、医療界全体として一般的な水準を下回っていたか、ということであるはずである。最善の医療が受けられない理由は、臨床能力の高い医師の配置などの地理的な理由と、他の患者への対応や複数の医師がいるかなどの時間的な理由とが関与している。しかしそういった側面を均質化した上で、その医療が一般的なレベルだったかが判断されるわけである。

医師からの説明の際に、そうしたことは当然説明されない。それは医師の資質に関わる問題であり、患者の不安に関わる問題であるからだ。だが、本来は共有されているべき前提であり、言葉に出さないが実は了解されているともいえる事柄でもある(つまり前提である)。

 

ある治療を受けるかどうかの判断を患者や家族に迫る際、「医学のことは分からないので治療は先生にお任せします」という反応が出ることがある。これは、前提の拒絶、として解釈できるだろう。医療者と患者の間に存在する前提の違いを、患者側が受け入れることを拒否しているのである。ただ、これは「先生を信頼しているので」という認識があるならば、成功した前提の拒絶と言える。

そうであるならば、前提を超えて患者が医療者に身を任せることの根底には、医療者と患者との間に信頼があるかということが問題となるのである。であるから、医師ー患者関係にはラポール形成が重要となるのである。つまり、前提は共有され得ないが、信頼の構築によって前提を背景化するのである。

 

失敗した前提の拒絶というのはあるだろうか。それは、医療者がどれほど言葉を尽くしても患者が理解しようとしない(できない)という状況だろう。

ある患者を診察、検査し、現時点では緊急性がないため一度帰宅し、症状が悪化した場合に再度受診するよう説明する場面というのは、医療の現場ではよくある。たいていの場合、患者は理解して帰宅するが、一部、どれほど説明しても理解せずに入院を希望する患者や家族がいる。こういった場面でもやはり前提が異なることを受け入れられないことが理由にあるように思える。例えば、患者は「救急外来に来れば今の症状を全て鎮めてくれる」と考えているが、医療者は「症状は残っているだろうが命に関わる状況ではないため様子を見ることができる」と考えている、と想定できる。そしてこのことをいくら説明しようと、理解されない患者は理解されない。実際にこうした対応を経験してみて感じるのだが、これは理解の前提が異なるとしか言いようがないのである。

 

こうした前提の違いは、先ほどのベイトソンの引用の通りで、医療に限らずあらゆる分野で突然現れる。何か事故が起こった時に、安全性に問題はなかったことを企業がいくら検証しても被害者は納得できない。政治家が関与した取引が法的に問題はないとしても倫理的に問題があるように見えると、社会の大多数は納得できない。そこには、その人が属する集団や社会の前提が関与しているのである。