フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

竹内洋『教養主義の没落』(中央公論新社、2003)まとめ

竹内洋教養主義の没落』(中央公論新社、2003)を読んだ。

自分のための備忘録も兼ねて、その内容の要約をここに記しておきたい。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

 

本書は、著者の実体験を皮切りにかつての大学に教養主義が存在したことを示し、戦前と戦後の記述を行ったり来たりしながら、教養主義の変遷には連続性があり1990年代には大衆的教養主義へと変貌していったことを記している。

 

 

本書の大きな構成としては、序章、1~3章、4章、5章、終章という大きな括りで分類できると思う。

序章では、自身の体験と学生への調査データを載せ、かつての大学では読書率が高く、読まれていた雑誌には『中央公論』などの総合雑誌が必ずランクインしていたことから、教養主義が存在したことを示している。当時の教養主義を回想し、教養がファッションであったり「インテリ」の身分として作用したりするという不純な動機があったとも述べるが、そこで次のように記している。

こういう不純な動機を意識させなかったことは、教養主義がキャンパスの規範文化だったからであろう。しかし、不純な動機だけだったというわけではない。教養を積むことによって人格の完成を望んだり、知識によって社会から悲惨や不幸をなくしたいと思ったことも間違いのないところなのである。 (p.25)

著者の深い実感として、今はなき教養主義が確かに存在したことを感じさせる。

ここで、「教養そのものよりも教養主義教養主義者の有為転変」を対象とする本書の方向性が示される。

 

1章では教養主義が時代を追って大正教養主義マルクス主義教養主義→昭和教養主義と変遷したこと示される。教養主義の変遷には旧制高校が基礎としての役割を果たしており、何人かの文筆家を引用しながら当時の空気感を伝えている。

もともと東洋豪傑風であった旧制高校のキャンパス文化が、夏目漱石新渡戸稲造といった教師が赴任し、人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度として大正教養主義が定着する。その後、森戸事件という赤化帝大教授処分事件をきっかけにマルクス主義が広がっていった。学生はマルクス主義に「個性の発展」と「人間的成長」の路を見出し、教養主義の核をなしている人格主義と連続していたという。

また、この中で重要なポイントとして、次のように述べている。

知的青年が教養主義からマルクス主義に移行することによって、教養主義空間の中で、象徴的上昇感を得ることができたということである。そのようにいうのは、教養主義空間が、未達成感や劣位感をもたらす象徴的暴力の空間でもあったということによる。(p.53)

しかし、1933年ごろよりマルクス主義への弾圧がはじまり、そこに生じた空白地に昭和教主義が復活していった。

 

2章では、石原慎太郎エートスを析出させ、教養知識人のハビトゥスへの違和感と憎悪があることを指摘する。続く3章で、そのハビトゥスを描出することになる。

 

3章では、帝大文学部とフランスのエコール・ノルマル・シューペリウールの文系とを比較し、後者では社会的出身階級が上流で都会出身者が多いのに対し、日本では相対的に文学部において農業出身者や地方出身者が多かったことを示す。出身家庭の社会的階級によって享受される文化資本や言語資本の差から入学条件に違いが出てくることを言及したのは、地方の下層中流階級出身でエコール・ノルマル・シューペリウール卒業生のピエール・ブルデューであった。

2章で示された石原の教養主義に対する違和感について、次のように分析する。

日本の教養主義は必ずしもピエール・ブルデューがフランス社会に照準を描くブルジョア階級の教養=ハイカルチャーの象徴的暴力ではない。教養主義ハイカルチャーの模造や紛い物。これこそが石原の教養主義に対する生理的嫌悪の背後にある心理と論理ではなかったろうか。(p.127)

1~3章のここまでで示された、日本での教養主義における象徴的上昇感と、相対的に都市出身者やブルジョア階級が少ないという点が、5章での内容と関連性をもってくる。

 

4章では岩波文庫が官学アカデミズムと相補的であったことを、岩波茂雄との関わりで記述している。岩波茂雄という人物の特異性がアカデミズムと出版業界の架け橋となり、帝大教授が岩波書店から書籍を出版することで岩波文化の正当性を付与され、逆にアカデミズム側では岩波書店から書籍を出版することで正典化するようになったという。

また、帝大教授は主に欧米学説の翻訳を行い、それを岩波文庫から出版していた。一方、私学では日本社会の実証的研究をするなどといった棲み分けがあり、学問ヒエラルキーが存在してきたという。そうしたヒエラルキー形成にも官学アカデミズムと岩波書店は影響を及ぼしてきた。

 

 5章では、3章での内容も踏まえ、教養主義は『成熟した都市中流階級のハイカラ文化』ではなく、『田舎式ハイカラ文化』であったことという。当時の流行の小説、武士文化と町人文化という文化的な流れ、山の手と下町という地理的な区分などから多面的に改めて示す。

明治に入り山の手は、学歴エリートである官員やサラリーマンが住む新興住宅街へと変化した。山の手文化は下町から「地方人の立身」と蔑視され、江戸ものではない山の手は「野暮」と言われた。それに対して山の手は「上品」という文化的アイデンティティで対抗した。その戦略が西欧化だったのである。

しかしその後、西欧化が進んだ「旧」山の手居住地は上層中流階級分化として成熟し、教養主義ではブルジョア文化に対抗できなくなった。そこで、成り上がったのに上流階級に到達できない地方出身インテリは、マルクス主義教養主義によって文化的に対抗するようになる。次のように述べている。

マルクス主義は地方出身インテリと親縁性があっただけではない。…教養主義教養主義の象徴的暴力空間では、転覆戦略ともなりえた。同時に成熟した都市中流階級文化への対抗戦略ともなりえた。マルクス主義教養主義教養主義マルクス主義というもうひとつの西欧文化によって、ブルジョア文化を「腐敗し、衰退する」と貶めることで、成熟した都市中流階級文化の上位に立つことができたからである。(p.195)

こうしてみると、2章でブルジョア的背景を持つ石原がマルクス主義教養主義に嫌悪を示したのもより納得がいくし、ある意味では文化戦略によって石原が打倒されたともとれる気がする。

 

しかし終章では、戦後になってこうした教養主義は、大衆的教養主義としてクライマックスを迎えたことが示される。『1970年代から日本の企業は大卒の大量採用』を行い、『サラリーマン予備軍』である大学生には『専門知や教養知を必要としな』くなった。大学生に読まれる雑誌にも変化がみられ、大学によって時間差があったものの、80年代には東大・京大でも教養主義は衰退していった。ビートたけしは知識人の言説を茶化し、大学生はたけしの知識人殺しを歓迎し、教養は一般教養科目を指す「キョウヨウ」になり、邪魔くさいものになり、新中間階級大衆社会となり階級社会は消滅した。

本書は最後に、次のように述べて結んでいる。

 教養の培われる場としての対面的人格関係は、これからの教養を考えるうえで大事にしたい視点である。教養教育を含めて新しい時代の教養を考えることは、人間における矜持と高貴さ、文化における自省と超越機能の回復の道の探索であることを強調して、結びとしたい。(p.246)

 

あとがきでは、著者が北京から帰国する際の出来事が、教養主義がまだキャンパスにあった頃を回想されながら、ノスタルジックに記されている。

 いつまでも手を振ってくれたひとりひとりの顔がいまでもはっきりと蘇る。季節も風景もちがってはいたが、「君が手もまじる成べしはな薄」(去来)のような別れ。教養主義とおなじく、こんな別れ、こんな教師・学生関係も一九六〇年代前半までの日本には珍しくはなかった。ささやかな本書をかれらに捧げさせていただき、かれらの研究生活での大成を祈りたい。(p.249)

 

 

要所要所に著者の人柄が透けて見える本であった。章ごとに簡潔にまとめようと思ったが、意外と時間がかかってしまった上に、虫食いのような要約になってしまった。本文で使われた言葉遣いを『』で括ろうとしたが、それも途中からという非常に中途半端な要約になった。

この本の感想は次回に記したい。