フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

他人の人生をわかる困難さ ―映画『ラストエンペラー』をみて

映画『ラストエンペラー』をようやく見た。ようやく、というのは、坂本龍一ラストエンペラーを以前から聴いていて、いつか映画そのものを見たいと思っていたからである。

メインテーマを先行して映画を見るというパターンもあまりないかもしれないが、『戦場のメリークリスマス』や『ティファニーで朝食を』の音楽は誰しも知っているものの映画を見たことがない人も結構いるかもしれない。そう思うと、実際はそんなに珍しいパターンでもないかもしれない。

 

映画を見れば誰しも抱くであろう感想は、中国最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が時代に翻弄され利用された、波乱に満ちた人生だったという点だろう。幼少期にまだ何も分からない状態で西太后に皇帝に任命され、母の死に際しても紫禁城から出られず、クーデターで紫禁城から追放され、満州国の皇帝として即位するが政治的に利用されるに過ぎず、皇后の婉容はアヘン中毒になり・・・と順に書くといっぱいになってしまう。簡単に見れば、幼いころに紫禁城に連れていかれ、時代が変われば紫禁城から追い出され、また時代が変われば日本に利用され、また時代が変われば中国に政治犯として捕らえられ・・・と常に時代と社会権力に翻弄された人生であったわけである。

映画の終盤で政治犯の収容所で菜園の手入れをしながら、看守に「放っておいてくれ」と語る場面に、世間に利用されてきた人生の悲痛さが描かれている。

 

しかし、やはり私の心に残ってしまうのは、歴史的建造物として展示されるようになった紫禁城に溥儀が訪れる場面である。かつて自身が座っていた椅子が展示されており、そこで監視役を務める子どもに、自分が最後の皇帝だったことを告げる。

場面は変わり、大勢の観光客が騒がしく紫禁城に入って見物するところで、大声で説明する添乗員が「溥儀は3歳で即位し、1967年に亡くなった」と、たった一言で人生を言い表して映画は終了する。

 

三島由紀夫安田講堂全共闘の東大生と対談をした映像の中に、天皇との個人的な関わりを話す場面がある。その際に三島は、「個人的な歴史」という言葉を用いていた。

そう、個人的な歴史が誰しもあるのである。

溥儀の人生も、この映画で波乱さに共感し、胸の奥からぐっとこみ上げてくる虚しさになんとも表現しがたい感情にはなるが、その人生の激動さを知っているのはその人自身でしかないのである。我々は、他人の人生を頭の中で想像し、理屈の上で理解することはできるが、感覚的には到底理解できないのである。どれだけ歴史的事実がどうであったかを人が議論しようとも、その人自身が経験し、記録にも残されずに記憶にのみ蓄積されていったものは膨大な量なのである。そしてそれはその人にしか分からない人生の重みなのである。

それでも他人の人生に共感し、こちらの解釈で勝手に感情が揺さぶられるのは、人間のエゴともいえるが、希望も持てる側面でもあるかもしれない。

 

私としては、仕事柄、病気を患った人に接する機会が多い。毎日複数の病気を患った人に接していて、なぜ平気でいられるかと考えてみると、それは他人の人生にそう簡単に共感できるものではないから、というのがあるかもしれない。

サービス業でも何であっても、人と接する機会が多い人はみなそう感じるのではないだろうか。目の前の客に対して「要望が多いうるさいやつだ」とか「何をしてほしいのかはっきりしない人間だ」とか思うことはあっても、その人間がどんな人生を歩んできたかなどと考えることはない。そんなことをしていたら到底もたない。

それでもふっと考えることがある。長く病床に臥していて、そのまま回復の見込みもないような人と接する時、病室で写ったテレビではいつも変わらず今日の献立や流行りのドリンクなどの放送に目が行くことがある。私が家に帰り、休日にどこか遠くに遊びに行っている間も、この人はずっとこの病室で、ただ時間が流れるのを感じている。しかし、きっとこの状態に至るまでには、私と同じように両親があり、学校に行き、仕事をして、という生活をしてきたのだろう、と。

 

溥儀の人生も、「3歳で即位し、1967年に亡くなった」と表現しようとも、3時間近い映画を見ようとも、本当の意味でわかることはできない。それは本人にしか分からないのである。それでも、この映画がこれほどヒットし、評価されているのを見ると、他人の人生に思いを馳せることの希望はあるのではないか。

 

目の前で病人が亡くなった際に、残念だったり仕方がなかったと思ったりすることはあるが、心が揺さぶられて涙が出たことは私にはない。しかし、家族に対して死亡が伝えられ、家族が遺体に対して語ったり涙を流したりしているのを見た時にはやはり感情が揺さぶられてしまう。それはその場面に、その人の人生が少しだけ見えるからなのだろう。その時になって初めて、その人が歩んできたものが見える気がするからなのだろう。

 

まとまりがなくなってしまった。何か最近自分が思っていることを吐き出したくて文章を書いた感じである。

ちなみにラストエンペラーと実際の史実との比較に関しては言及しない。