フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

触ることと言葉と

気づくとまたブログを更新していなかった。書きたいテーマがあるわけでもないが、今回は「書く」という行為自体に意味を見出して、何かを表出してみたい。

 

今年は年末年始に連休を取ることができ、暇な時間がだいぶ多く取れて余計なことをいろいろと考えていた。考える行為自体はヒトらしさのある行為のような気がするので、悪いことではないだろうが、答えのない問いについて自問自答しているとだんだん気が滅入ってくる。特に自分のプライベートなことに関して考えていると、具体性が高いぶん、より陰鬱な気分になりがちである。そうした問題意識と社会との関連を考察する思考が社会学的想像力なのだろうが、トレーニングも積んでいない人間にはそんな思考には到達できない。

 

年末年始に時間はあるが外出は控えるという状況の中、本を買ってカフェで一人で読んで時間を過ごしていた。爆笑問題太田光の『芸人人語』が話題であったので、買って読んでいた。この本は雑誌の随筆を一冊にまとめたものだが、この人は言葉というものに本当によく配慮しているのだなと感じた。

よく、演劇や絵画、演奏、本などに「電気が走ったような」出会いをしたという体験を耳にする。私自身そうした体験をしたことはないが、その出会いがあること自体がそうした媒体の評価を高めることはない。その体験をした当人のその時の感受性が、そうした媒体と見事にはまった時にそのような感覚になるのだろう。当人にとって、個人的な歴史の中で衝撃的な出会いであったわけであり、歴史的な転換点として機能したものがそうした経験として語られるのである。

私自身、そこまで至るわけではなかったが、この本を読んでいて何か胸にぐっとくるような箇所があった。今読んでもその箇所がどこだったかはわからないが、何か「心に残った」ことは覚えている。おそらく何かやさしさに触れることができたのだと思う。

 

それから本を読んでは止めてを繰り返していたが、次に伊藤亜紗の『手の倫理』を読んでいた。道徳と倫理の違い、触ると触れるの差異などをお膳立てとして考察が展開される本である。私自身の仕事柄、人に触ることを許容されることが多く、そうした触る行為が他者にもたらす影響を知りたかった。また、プライベートな行為の中での人に触る・触れるということについて考えてみたかったのである。

終章の中で、介助とセックスについての記述がある。社会学者の前田拓也が、セックスの行為の時に介助に似ていると感じたことで興ざめしてしまったということが引用される。そして、「フレームの混同」というフレーズを用いてそれについて解説している。

「フレーム」とは、社会学者ゴッフマンの用語で、私たちが「これはどういう状況か」を理解するための認識の枠組みのこと。フレームが混同されるとは、「これは介助だ」というフレームで理解しているつもりの状況に、「これはセックスかもしれない」という別のフレームが入り込んできてしまい、状況の意味を一意に定義できなくなるということです。その結果、自分がいま何をしているのか分からなくなる、リアリティの混乱が生じます。(p.183)

そして、こうした混同が特に触る・触れる行為で起きるのが、身体の行為として共通しているからだと説明されている。行為としての距離感が、視覚や聴覚と比して短すぎるため、他の記憶を呼び覚ましやすいということであろう。しかしこれは、逆に他の記憶を呼び覚ますため、目の前のリアリティから遊離しやすいとのことであるが、それに関してはひとまず措くとしよう。

確かに、人に触る・触れる、触られた・触れられた経験というのは、根深いところで残っているものである。その経験を今思い出せと言われても出てこないが、ふとした拍子に思い出されることがある。

死に際した病人に、家族が手を握ったり顔を触ったりする場面に遭遇する。そうした行為は何によってもたらされるのかはわからないが、言葉をかけるよりもコミュニケーションとして機能する場合もある。まもなく息を引き取る、あるいは息を引き取った人間に対しては、そうしたコミュニケーションは生きている側からの一方的なやり取りでもある。触る、というのは同時に触られる行為でもある、にも関わらずである。それはすなわち、自分で感じたいという欲求の表れであり、強く残る経験として自分の中にとどめておきたいのであろう。そうした記憶から、後に「フレームの混同」により記憶が呼び覚まされるのを期待しているともいえるかもしれない。

人生の中で、セックスが重大な出来事の一つとして語られることが多いのは、この触れる行為の力強さに起因するのではないだろうか。それが大人へのイニシエーションだったり、人間としての幅を示すものであったり、語られる役割としては多様であるが、強烈な印象として残るのはやはり触れる感覚の強大さによるのである。乳幼児期に経験して以来の、相互的に人と綿密に触れ合う貴重な機会でもある。

 

一方で、人に強く突き刺さるのは言葉でもある。社会心理学では、少数派の意見が時間を経て他者の思考に影響を及ぼすことが述べられているが(『社会心理学講義』小坂井敏晶)、言葉の持つ力というのは触れる行為とは別に重大である。精神科医は基本的に話すことによって患者と信頼関係を形成するが、それは言葉の持つ力を知っているからである。学校でのいじめやネットでの誹謗中傷は時に人を自殺に追い込むが、それも言葉に起因する部分が大きい。

日食なつこは「ヒューマン」の歌詞の中で「何回言っても伝わらないで 使いこなせもしない言葉の爪 手入れもせずに振りかざして つけた傷跡を消す薬はない」と歌っている。


日食なつこ -「ヒューマン」MV(弾き語りver.)

 

言葉の持つ影響力は非常に強いが、そこには人間の距離感を無限に広く取る作用も持ち合わせている。触る行為が距離を取ることができない(ひもなどを通じることはあっても長距離は離れられない)のに対し、言葉は地球の裏側にでも届くことができる。しかし、相手の感情や求めるもの、体の内側に潜む状態、直接の体温や触感を得ることができる行為も触る行為である。

特に何を言いたいということもないが、触ることと言葉というのは対照的でありながら、人間に深くまで作用を及ぼすのである。

 

芸人人語

芸人人語

 
手の倫理 (講談社選書メチエ)

手の倫理 (講談社選書メチエ)