フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

エビデンスと保守主義的思考

たまには本職の医療の話でもしてみる。とはいえ、医療系の人間ならよく参照するであろう、最新のエビデンスをまとめたり和訳したりするような内容を書くつもりは全くない。それらは専門職にとって有益ではあるが、筆者の意見はなく退屈だからだ。

 

ある癌の終末期の患者を担当した際に、上司に「予後予測(あとどれくらい生きられると予想されるか)のスコアをつけてみよ」と言われた。調べるとPalliative Prognosis Scoreというものが出てくる。

かつての医療がどうだったかは分からないが、最近は何をするにしても「診断基準」「スコアリング」がやたらと登場する。これとこれとこれを満たすからナニナニ病です、スコアをつけると何点なので重症度はBです、などと。

 

こうしたスコアリングは医療の一般化には大いに貢献するのだろうが、正直目の前の患者が生身の人間だろうが作られた人形だろうが、同じ所見があればスコアは変わらない。その基準には、どの病気のものであるかによって、用いられる指標は当然ながら様々である。例えば、「体の所見」でこういったものが揃っていることを重視するものもあれば、「検査」でこうした数値が出ていることを重視する、というものもある。こうした基準は、一見ある疾患や病態の本質・真理を反映しているようにも見えるが、個人的には「人間の偏見を利用した暫定的指標」に過ぎないと感じている。この点に関しては後述しよう。

 

さて、上述の癌患者の予後予測としてのPalliative Prognosis Scoreだが、なんだこれ、と思うとともに、なんとなく安心したような気分になったのだ。

具体的な項目としては、「臨床的な予後の予測」「Karnofsky Performance Scale」「食欲不振」「呼吸困難」「白血球数」「リンパ球(%)」となっている。これらの点数の合計が一定より高いと予後は週単位、低いと月単位と予想される、というスコアである。Karnofsky Performance Scaleというのは、本人の日常の介助がどれほど必要かという評価なのだが、「臨床的な予後の予測」を除いた項目は検査や本人の話から評価可能であり、それぞれ1項目につき2.5点程度の点数が付く。一方、「臨床的な予後の予測」というのは、最大で8.5点をつけられる項目であり、なおかつ、これは医療者の主観評価に依っているのだ。この項目で8.5点を付けると、他の項目の合計で0.5点しか付かなくても、スコアの結果としては予後は週単位となる。

このスコアがどれほど有用かという議論をするつもりはない。しかし、あなたはどれほどの予後だと思うか、という項目に重点が置かれているこのスコアを見たときに、データばかり評価するスコアとは異質な印象があり、なんだか人間らしさを感じて安心したのだ。

 

これはおそらく、私の人間観に由来している。一つには、人間というのは本来的に不完全であると考えており、理性というものを根本的には信用していないこと。もう一つには、人間というのは結局のところ分からないということである。

スコアもエビデンスも診断基準も、全て人間の理性が構築したものに過ぎない。しかし世界が近代化した結果、あらゆるものを合理主義的に捉える動きが加速し、医療にもエビデンス重視の時代が到来した。現在の新薬は全て臨床治験を経てから採用され、データを積み重ねたものが採用されている。一方、あまりにも古くから使用されてきた薬剤にはエビデンスがないものもあり、もし現在の治験の流れを用いたならば動物実験の段階で有害性が出現して使用されなかったであろうものもあると言われる(もちろん人間に有害性がないため実用されている)。エビデンスの時代なら、本来はこれらの薬剤の有用性を臨床試験によって確かめるべきだろう。なぜそうされないかというと、経験的・歴史的に安全であると判断されているからである。

この考え方というのは、思考の方法論として政治的思想と対照的に比べてみると、本来の保守思想に近いところがある。すなわち、理性を重視して変化を推し進めるよりも、構成されてきた伝統や文化を重視する考え方だ。

先ほど、スコアやエビデンスは人間の理性が構築したものに過ぎないと述べた。では、それらを信用して用いないのかというとそうではない。エビデンスの時代に医療における統計手法が時間的経過とともに確立し、何が有効で安全であるかを多くの医療者が判断して合意の上で出版されるエビデンスには、過去の蓄積及び医療を構成してきた伝統的な思考が乗っているから信頼性があるのである。これには理性的な働きよりも伝統的解釈が占める面が大きい。

 

診断基準やスコアリングが定期的に改訂されるのはなぜかというと、それは新しいエビデンスの蓄積があるからなのだが、本来の保守思想というものには微小な修正や改変は不可欠である。最新の知見がガイドラインに反映されるのが遅れるのは、次回の出版年月の問題もあろうが、新たな知見がガイドラインの変更に耐えうるほどの信頼性を保っているかが重要となるのである。その信頼性が多数の合意の上に判断された際に改変されるものなのである。

 

ところで、こうした診断基準などを「人間の偏見を利用した暫定的指標」に過ぎないとしたが、その理由もここにある。本当の真理に到達したのならば、その内容が時々刻々と変化するのはおかしいのだが、科学というのは反証可能性を持つ仮説の集まりに過ぎない。医療が科学である限り、そうしたエビデンスは暫定的指標であり、エビデンス重視の時代であればあるほど、それらの指標は暫定的なものとして扱われる。

「人間の偏見」とした点に関しては、ガイドラインの項目を見ればわかるのだが、それらのスコアや基準が人間の解釈しやすい項目を並べて作られている、という意味で「偏見」と表現している。人間はものをありのままに捉えることはできず、そのために分割したりある視点のみを与えたりして、解釈しやすい形に変更する。血液検査の数値がいくつというのを基準とするのは、非常に明瞭でわかりやすい。その人間の実際の状態がどうであれ、採血を取ってデータさえ出れば一定の答えを得られるというのは人間にとっては都合が良い。目の前の多種多様な人々に対して血液データ一つで同様の評価を与えられるというのは、人間に都合の良いものからの視点、すなわち偏見に裏付けられている。

 

また、Palliative Prognosis Scoreの主観によるスコアの幅というのは、目の前の人間が今後どのような経過をたどるかなど分からないということに依っているようにも思える。たとえば、画像検査では明らかに癌が悪化しているのに、数日前まで呼びかけへの反応も乏しかった人が、やたら反応が良くなったことがある。認知症があり、反応にも乏しかったのに、私が何度か回診で会っていることを確かに覚えているのである。意外とあと数週間は持ちこたえるのでは、と思っていたら、突如数日後に状態が悪化したりする。

データの蓄積のみで人間の体を管理できないというのは、なんとなく感じるところである(もちろん顔の表情と聴診器1本のみでも管理できない)。人間というのはまだまだわからないという印象だ。