フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

日本人の死体観

筑摩書房の『死体は誰のものか: 比較文化史の視点から』(上田信、2019)という本をタイトルに惹かれて手に取った。漢族、チベット族キリスト教、日本で、死体がどう扱われてきたか、ということを比較して記している。本書では、「死」「死者」「死去」を論じたものは多くあるが、「死体」について書かれたものは少ないため、そこを狙いにしているという。全体として、各文化での死体の扱われ方は、その文化圏での死生観とも連続性があるため、読んでいて興味深い。

 

その中で、臓器移植に関する記述があったので、少し考察してみたい。第46号の『比較法研究』での記載をもとに、次のように記されている。

 

…日本では本人が承認しても、遺族が拒否すれば摘出は認められず、本人が拒否しても遺族が承諾すれば摘出は認められることを、読み取ることができる。本人の意思は、遺族が意思を表明しない場合に限って有効となる。

他方、欧米では全般的に、本人が承諾すれば、遺族が拒否しても摘出が可能であり、本人が拒否すれば、遺族が承諾しても摘出は行われない。日本における親族の死体に対する権利に強さは、特筆される。(p.211)

欧米では本人の意思が臓器提供で重視される点と、日本では遺族の意思が重視される点とで比較されているが、果たしてそうか。『医療倫理の扉ー生と死をめぐって』(小松奈美子、北樹出版、2005)では、次のように記されている。

 なお、オーストリアポルトガル以外でも、ベルギー、フランス、スペイン、ギリシャ、イタリア、ルクセンブルクなどで「反対意思表示方式」を採用していますが、これらの国では「臓器は社会のものであるとともに家族のものでもある」という立場をとっているので、家族が拒否すれば臓器が摘出されることはありません。

このあと、日本で厳しいドナー制限が設けられていることが記述されているのであるが、この記載に従えば、臓器は「家族のものである」という認識は日本特有のものではないと理解される。ただし、それでも日本で臓器提供が欧米諸国に比して明らかに少ない点には、日本での死体に対する認識の違いが多分に関係している。その一つは、上田の本書でも記されている、「親族が死体を浄化する責務を負っている」という認識である。そしてもう一つ、私が個人的に考える点として、身近な人間の死体を傷つけることに現代特有の強い忌避感があるのではなかろうかと思う。

上田の本書では、以下のようにまとめられている。

日本の伝統では、僧侶などの聖職者が死体を儀式によって浄化し、死体から死者を切り離すことで、共同体に対する危険性を死体から取り除く。しかし、恐ろしい死体を聖職者のもとに運ぶ責務は、多くの場合は親族、身寄りのない死体については…共同体の嘱託を得たものが担っている。…日航機墜落事故の後の、一般的な日本人が親族の死体を回収することに心砕く理由は、その責務を全うしなければならないという責任感に由来するものであろう。(pp.216-217)

一般的に、こうした議論の際に、日本人の死生観として、日本は「あの世」と交流が多い価値観であり、綺麗な体であの世に送らないとお彼岸でこの世に帰ってきたときに・・・、というような論理があり、以前より眉唾だと思っていた。本書では、死体を成仏させるために聖職者のもとへ送らねばならないという、共同体に残された者の責務として記している点が興味深い。

 

他に、日本人の死体に対する見方には、現代になって死体が「隠蔽」されるようになったことにより、身近な人間の死を生と連続的なものと受け入れるために、遺体が傷つけられることを強く拒否する感覚があるのではないかとも思っている。

1950年代、日本人が死ぬ場所は自宅が82.5%を占め、病院は9.1%だった。その後自宅死は減少を続け、対して病院死が増加し続けてきた。1975年ごろを境にその数は逆転し、2009年には病院死が78.4%、自宅死が12.4%となっている。(

https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r985200000105vx-att/2r98520000010l2r.pdf)

病院での死亡した遺体は霊安室へ運ばれ、葬儀屋へと受け渡される。かつての日本では、死体を数日間自宅に置いていたが、現在では速やかに機械的に処理される。それゆえ、生活の中で死体と対面する機会は圧倒的に少なくなった。そうなると、人間の死というものを実感を持って体感しがたくなっているのである。というよりも、生きていた人間が死体になったということを体感しがたくなっているのである。

すると、いざ身近な人の死に直面した時に、死体は生きていた時の人間と連続性を持って感じられ、死人にメスが入ることで傷がつくことは、生きているその人にメスが入るのと同様の感覚を抱くのではなかろうか。死体を適切に浄化せねばならないという責務と、身近な人の死体を死体として接触できないために生じる傷つけることへの忌避感とが、日本人の現在の死体の見方を形成しているように思われる。