フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

医療と社会的つながり

テレビを見ていたら情熱大陸上野千鶴子が特集される回だったので、ぼんやりと眺めていた。一緒に見ていた母親がうるさかったので、内容をほとんど把握できなかった。だが、途中で、「日本は家族の呪縛が強すぎる。家族 is the bestという考えが未だにある」というようなことを言っていた。

おそらくこれは、幸せな家庭で生活できている人々からすると、家族 is the bestで何が悪い、と感じるだろうし、不幸せな環境であればその通りに感じることだろう。

ただ、幸せな家庭にある人こそ、老後を考えると家族に居場所を求めすぎるのは危険であるように感じる。

 

WHOは「健康の社会的決定要因」として10項目を挙げている*1。近ごろ健康格差というワードが話題になっているが、おおよそそれで取り上げられるのは経済的な問題と社会的地位が多い。もちろんそれも重要な点であるが、そうした主張はしばしば特定の政治的主張が前提にあり、健康格差がその主張に利用されがちになってしまう。今回は10項目の中でも「社会的支援」を考えてみたい。

「社会的支援」とは簡単に言えば、社会とのつながりである。つまり社会とのつながりが少ない人は病気になりやすいので、つながりを持つべきということである。

経済力のない人や社会的地位の低い人では、社会的つながりも希薄になるため、健康被害も生じやすいらしい。確かにそうなのだろうが、その主張のみではすべての解決策を社会全体の問題に帰結させてしまうため、地道な解決につながりにくい。また、そもそも日本では核家族化が進み、子どもが自立して家を離れた後に配偶者が死亡した場合、高齢者の一人暮らしをせざるを得ない状況になりうる。こうした意味で、家族にのみコミットするのは将来の孤独を生みかねないという危険性がある。

 

で、私は、消失された共同体を、現代的な形で再生することが近道なのではないかと考えている。しかし、何もつながりのない人々に共同体を形成せよと言うのは困難な話であるため、これは"医療"を媒介にするのが一つの策ではないかと思っている。

 

以前に田舎の診療を見学した際、週に一度ほど診療所の医師が集落の集会場に出向いていき、診察と薬の処方を行うという光景を目にした。その集落では、集会場に集まり、全員の診察が済んだ後、住人が持ち寄った食べ物などを食べながら談笑するという時間が設けられていた。

 

特定の地域住民の人々(特に高齢者)が、共通して抱えている可能性の高いのは何かしらの疾患であり、それにより通う可能性が高いのは地域の診療所や病院である。すなわち、つながりのない地域であっても、住民が共通して訪れる可能性があるのは診療所や病院なのである。

これを逆に利用し、その地域の人々が集う場を提供し、つながりの形成を促すことはできないものだろうか。例えば、あくまで思い付きの例であるが、特定の曜日の診察では近くにお茶やお菓子などを食べながら住民や医療スタッフと会話をできる場を設ける、などである。

 

参画する共同体がない人々に、医療を媒介として社会的つながりを形成する場を提供すれば、現代的なゆるやかな共同体の形成が可能なのではないか、と思った日曜の夜でした。