フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

科学における客観的事実と当為

日本学術会議の一部の構成員の任命を菅内閣が拒否したことが大きなニュースとなっている。政府の方針では、任命拒否という法的プロセスの妥当性に対して判然とする説明はなされず、なぜか日本学術会議という組織そのものの在り方という方向に議論が進んでいる。今回の任命の問題と学術会議そのものの在り方の問題というのは、全く次元の異なる話であり、任命拒否の話題から明らかに流れが飛んでいるのだが、どうやらこの方針で進めるらしい。

 

世界の中で日本の科学分野は明らかに存在感を失ってきているのだが、どうも学問を軽視する方向に進める今回の流れに変化はないようで、このままでは今後に大きな影響を及ぼすだろう。今までも政府に対しては様々な問題で批判や疑惑があったが、今回の学術会議の方針に関しては質が異なる。一部政府機関としての学術会議 対 政府 という構図で、政府の方針が押し切られてしまうと、今後数十年の科学や学問に対する国の在り方を左右する転換点になりうる。私は今回の決定に対してしっかりと検証されなければ、日本の科学がこのまま衰亡するという方向にまっしぐらになると思えてならない。優秀な学者の国外への流出はますます加速しかねない。そうした重大な問題である。

 

さて、今回、いくつかの政府を擁護する意見をSNSで眺めていたら、「日本学術会議は本来の科学である『客観的事実』ではなく『べき論(当為)』を押し出しており、科学としての機関として機能していない」という意見を見かけた。それが一部の素人の意見であれば良いのだが、それなりに支持されていたため、この点に関して述べておきたい。

 

まず、おそらくこうしたツイートが出てくる背景として、自然科学は客観的事実を追及しているが、人文科学や社会科学は当為が先行しているという"イメージ"があるように思われる。

 

今回は、まず自然科学だけでなく科学一般に当為はつきものであることを述べ、その次に、自然科学、人文・社会科学の取る方法論の差異によってそうした誤解が生まれるという点について記していく。そして、そもそも戦略的に当為を論じることは学問的でないと言えるのか、という点にも言及していく。

 

例えば、アルツハイマー病の原因を探求する研究について考えてみる。

アルツハイマー病患者では一般的に、アミロイドベータ(Aβ)とタウ蛋白が脳に蓄積することが確認されている。Aβはその残基の数によりAβ40とAβ42があるが、アルツハイマー病ではAβ42の割合が高い。分解酵素としてネプリライシンがあり、これはAβを分解する働きを有する。このネプリライシンの発現を高める薬剤を開発できると、アルツハイマー病の治療として使えるようになる可能性がある。*1

上の記述を読むと、客観的事実のみを示しているようにも見えるが、そもそもこうした研究の前提として、「人間の神経科学の仕組みを明らかにすべき」だとか「アルツハイマー病を人類は克服すべき」という価値判断がある。まして、新たな薬剤により人類に害をもたらす可能性もあるが、それでもアルツハイマー病克服というベネフィットが勝るという判断により、実用化に向けて多くの研究は動いているはずである。もし客観的事実のみを提示するのが科学であるならば、そもそもアルツハイマー病の原因の研究はなされないであろうし、仮になされたとしても、「アルツハイマー病ではAβが増えている」「~~というプロセスでAβは増える」という事実を提示するに止めるほかなくなってしまう。そもそも人間の判断には価値判断がつきものであり、それが次の方向性を定めるものである。こうした研究の方向性を提示する組織として、学問の機関というのは必要になってくるわけである。

 

マックス・ウェーバーは、価値自由という概念を提示した。価値自由とは、「事実と価値をはっきりと分け、…社会科学は、あくまで事実を認識するためのものであり、それが善いか悪いかといったような評価(価値判断)をするべきではない…。このように、主観的な価値観から自由になること」*2とされる。ただし、「価値自由とは、個人は必ず特定の価値観を持ってしまうもので、それを自覚しないと、事実を冷静に見極めることができなくなるという警告」*3として作用する。すなわち、まずは自身が立脚する価値基準を認識することが求められるのである。その上で、事実をもとに当為判断を下すことはあるが、それをどう判断するかは政治にゆだねられるのである。学問が提示する客観的事実や当為判断そのものに対して、政治が介入してくるという在り方は正しくない。その提示をもとに政治的判断を下すことが政治の役割である。

 

自然科学は客観的であり人文・社会科学は恣意的であるような印象も世間では多いが、それは扱う対象の違いと、それにより立脚される方法が異なることによる。物理学では物体を相手にし、生物学では生き物を相手にする。繰り返し実験を行うことが可能な対象であり、それゆえに得られる定量的データも多くなるため、再現性という方法を採用することができる。同じ生物でも、ヒトが対象になると倫理などの問題があり、複数のヒトをラットと同じように薬を投与したり遺伝子をノックアウトしたり一部臓器を用いて実験を繰り返したりすることはできない。そのため、臨床研究では医学統計を用いて臨床研究を計画し、一部の人々で薬が投与された際の反応の結果が、どれほどマグレらしいかそうでないかを検証することが多い。臨床研究では有意水準を0.05と定めることが多いが、他分野では設定される数値は異なる。

ではこのように基礎研究とは異なる背景を持ってなされる臨床研究に対して、人文・社会科学が客観的でないと批判する人々は、臨床研究も客観的でないと批判するのだろうか。ここまで来ると、客観性という言葉の解釈に関わってくるが、あくまで客観性という観点から学術会議の問題を批判する人々には、より客観的にそれを示してもらいたいものである。

 

そもそも学問分野は当為判断を下すべきではないのか。C・ライト・ミルズは、「社会学的想像力」の中で次のように述べている。

もし民主的な歴史形成のなかで理性が自由な役割を果たすのであれば、その主たる伝え手の一つは間違いなく社会科学者でなければならない。民主的な政党と運動、公衆がないからといって、教育者としての社会科学者が自分たちの教育組織を枠組にしようとすべきではないということにはならない。その枠組のなかで、諸個人からなるそのような解放的な公衆が少なくとも最初は存在し、そして彼らの議論が促進され支えられるのである。*4

 本書は当時のアメリカにあった、体系化・理論化を重視する「グランド・セオリー」と定量的評価を重視する「抽象化された経験主義」に対する批判として書かれていることに留意する必要はある。だが、官僚制的に社会分析をするのみが社会科学の役割ではないということを喝破している。そして、「民主主義における社会科学の教育的・政治的役割は、個人的・社会的現実の適切な定義を展開して、それを受け入れ、それに従って行動する公衆と諸個人を啓発して支えることである*5」と端的に述べている。

 いま話題の言葉遣いをすれば、"政権に批判的であろうとなかろうと"、私的問題と公的問題につながりを見出して論述し、そしてそれを人々に訴えることが役割だということになるだろう。その論述が客観的かどうかは学問的判断に委ねられるだろうし、それが社会的に必要となれば政治的判断が下るであろう。

 

 

ある学問が客観的でないという意見に対して、他分野は客観的と言えるのか、当為的判断は下っていないと言えるのか、そして当為を学問は述べるべきでないのか、それらについて私見を述べた。

私は、今回の学術会議の問題に関しては、批判を続けるべきであると改めて述べさせてもらう。

*1:岩田修永,西道隆臣. アミロイドβペプチド代謝アルツハイマー病.日薬理誌 2003. 122; 5-14

*2:香月孝史. 価値自由. 社会学用語図鑑. プレジデント社 2019. p.66

*3:同. p.67

*4:C. Wright Mills. The Sociological Imagination. 伊奈正人, 中村好孝訳 筑摩書房. 2017. p.319

*5:同. p320-321