フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

非合理性を認識すること

今年はマックス・ウェーバーの没後100年であるらしい。ウェーバーの死因はスペイン風邪によるものと言われているが、奇しくも100年後のこの時期に新型コロナウイルスが世界的大流行を引き起こしており、妙な共通性をつい感じてしまう。

没後100年ということもあり、中公新書岩波新書からウェーバーに関する新刊がそれぞれ出されている。まずは中公新書のほうから読んでみた。

 日本でマックス・ウェーバーといえば、社会学専攻の学生なら必ず耳にする人物(だと思う)であるが、海外では日本ほどの熱量ではないとのことを耳にする(趣味の読者なのでよく知らない)。だが、以前にアメリカの社会学会だかどこかが、学生に勧める本の中には『経済と社会』が入っていた気がするので、不可欠な人物であることも間違いない。

さて、ウェーバーの本はまだ『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と『職業としての学問』しか読んだことがない私である。感想としては、展開される論理から得られる"逆説的な"結論をよく示す、という点と、実直に論理を組み立てていく点であった。例えば、前者であれば、プロテスタントの人々は熱心な信仰心を持つがゆえに、世俗の仕事によく励みお金を貯めた、という論理である。そして、後者については、『学問』の本で登場する「知的廉直」という言葉にあるように、生真面目な性格を薄々と感じていた。

そして、この生真面目さは、本書を読んで改めて確認することとなった。

 

ウェーバーの思想には、二項対立する概念がしばしば登場する。形式合理性と実質合理性、信条倫理と責任倫理、などである。二つの概念を軸として分析することは構造化して現象を大きく見ることには有効であるが、概念から取りこぼれた領域については隠蔽されてしまう。概念化しなかったことで見えてくる別の視座からの構造は見えなくなってしまう恐れがある。ただし、その概念から見えた社会はより深化させられるという有効性もある。

偏見だが、このあたりはドイツ人らしいと感じる面であり、上部構造・下部構造だとか、ドイツのクラシック音楽のようなかっちりした構造との共通性を個人的には感じてしまう。

 

さて、それは措くとして、本書はウェーバーの境遇や価値観を提示しながら、滑らかに話が今の日本や世界に移行するところに面白さがある。その中で、投票制の話が見られる箇所がある。ウェーバー比例代表制に否定的だったとのことであるが、それは『党内の人事とカネを掌握した「ドン」のような人物が暗躍(p.194)』する可能性があり、それにより『政治的リーダーシップが損なわれる(p.195)』ことを危惧するためであった。この考え方には当時の時代背景も影響しているのだが、ウェーバーは組織が過剰になり、リーダーを潰す可能性を危惧していた。一方、今日の世界では、『政策の中身や政策を形成していく熟議をともなうプロセスよりも、「決めてくれる人」への期待が高まっている(p.202)』と筆者は述べる。

ウェーバーの思想では、近代は脱魔術化し合理化された社会として描出される。ただ、筆者は、脱魔術化によって世界から非合理でなものがなくなるわけではないと述べる。そして、

ウェーバー・ワールドでは、合理的になればなるほど、かつては偏在した非合理はカリスマの決断という一点に煮詰められていく。ニーチェは「神は死んだ」と宣告した。そしてこの「神の死」をウェーバーも共有している。しかしウェーバーの場合、かつては神が担っていたものがカリスマに委ねられる。(pp.206-207)

ニーチェは超人によって克服としたが、ウェーバーはカリスマに神の死の超克を見る。

 

今日のニュースを見ていると、「あの人は仕事をやっている」という点で国民が政治家を選ぶように見えるが、実際にその人が特に仕事をしているかどうかは明らかでないことも多い。また、何かを成したとしても、それが功罪どうなるかは数年後の評価を待たねばならないこともある。それでも、何もしないよりは何かをしている人物のほうが評価され、また、実際に同じことをしていたとしても何かをしているように見せることが得意な人物が評価されるように私には見える。

政治家として仕事をしているかという点は、一見すると合理的な評価に見える。特に財源が絡む場合には定量的に評価でき、客観的な指標としてそう見えることも多いが、これも一種の価値の尺度に依存している。自分がその価値観によって政治家を判断しているということを認識することがまず必要になってくる。

そして、その合理的な判断というものは、案外、非合理的であることも有名である。

ランドル・コリンズの『脱常識の社会学』によると、

では国家を支えるのは何なのか。つまるところ、国家は社会組織である。それは、何らかの政治的目的を達するために協同することに同意した人びとの関係を調整するものである。国家を形成する人びとは、なぜ彼らの間に交わされた契約を守るのか。(中略)純粋に合理的な観点からすれば、国家が他の組織よりもばらばらになりにくい理由は何もない。このように、国家は、それ自身がある種の前契約的連帯の基礎の上に立たなければ、社会契約をバックアップすることはできない。(p.32)

 とある。国民が合理的に行動するという仮定に立つと、背理法的に、非合理的な基盤があると考えざるを得ないと結論づけられる。

 

合理的な判断によってカリスマを選んでいると考えていても、実際には非合理的な心理によって良いと思い込んでいることがありうる。何かを為して責任を取ることに重点を置くか、何かを為すことになるまでの過程に重点を置くかは、それぞれのポリシーであろうが、自身がどの価値観を選択しているかということに敏感になる必要がある。そしてその判断には、非合理的な基盤が存在していることにも気づく必要がある。

 

そう思ってテレビを見ていても、口がうまい人には納得させられてしまう自分がいる。