フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

PSYCHO-PASSがヒットした要因と実社会への連続性

PSYCHO-PASS自体の魅力はどこにあるかと考えてみると、主人公の常守は体制に疑問を抱く人物が主人公でありながら、自身は厚生省公安局という体制側の人間であるという両義性にある。日常の事件では体制側として対応しつつ、物語全体を通底するテーマは現状の体制に対する疑問の投げかけである。

 

しかし、こうしたテーマは日本の刑事ドラマなどではおなじみでもある。長年ヒットし続ける「相棒」シリーズでも体制側の陰謀などが大きく絡むストーリーとなっている。くわえて、犯人であっても人間的な態度で接する常守の姿勢は、「はぐれ刑事」や「鬼平犯科帳」に通ずるところがある。1期で狡噛が槙島を法の外で殺害した点では、単純な勧善懲悪で片付けられない「必殺仕事人」とも共通性があるともいえる。

 

このようにして見ると、悪を裁く物語として日本人にヒットする要素である、「体制側の悪」「刑事に人間らしさ」「勧善懲悪」などを物語の基本に据え、実はどっしりとパターンをなぞっていく面が見えてくる。現状の体制に疑問を抱きながらも、自身はしっかりと法の中での信念を全うする姿は、日本人の刑事ものでグッとくる場面である。

 

 

しかし、それだけではこれだけのヒットを生まなかった。ここにSF的な近未来要素、しかも「陰鬱とした管理社会の未来」という要素を加えたところに捻りがある。

 

ジョージ・オーウェルの『1984年』はPSYCHO-PASSと同様に近未来の管理社会を描くが、主人公は体制から隠れて犯罪行為を行うが最終的に体制に敗北してしまう。常守は体制側とも上手く渡り合っており、単に虎視眈々と体制を変える機会を待つわけでもなく、隠れて違法に行動するわけでもなく、自身の職務を全うしながらもより良い社会の在り方を自身で模索していく。この体制側の自分を肯定している姿に、1984年とは異なるPSYCHO-PASSの一つの特徴がある。

 

さらに、「犯罪係数」で国民を監視する手法に現代的な新しさがある。『1984年』ではテレスクリーンというカメラで監視され、自由な思想を持つことを禁止されるが、その目的は「権力のため」である。対してPSYCHO-PASSではどうだろうか。犯罪係数が上昇した場合になされる処置は、「メンタルケア」なのである。あくまで、「国民のため」に監視されているところが大きく異なっている。

 

これはフーコーの思想と共通性がある。

 

そもそもなぜ物語の設定として、公安局が厚生省の下部にあるのか。公式の設定では、シビュラシステムの確立に伴っていくつかの省庁が厚生省の下部組織として再編されたとあるが、これはあながちふざけた設定ではないかもしれない。

 

フーコーによると(『フーコー入門』中山元ちくま新書、1996年)、

社会が、生物体にように存続することを自己目的とするようになると、社会の構成員に死を与えることよりも、社会の構成員をよりよく<生かす>ことが重要な課題となる。(p.151)

という。市民社会では国家権力は国民に「生を与える権力」となった。

 

19世紀にフランスのポリス、ドイツのポリツァイが誕生し、これは「社会の治安を維持することだけを目的とするのではなく、住民の最適な健康を確保し、寿命を長くするという生-権力の専門組織とその学問を呼ぶ名称」だった。(同 p.184)

 

つまり、国家が国民に健康の維持を目的として介入することは、国家の存続や治安維持と合わさったものとして出発しているわけである。これは、国民一人ひとりの内部から行動の変容をもたらすため、外的な強制的な権力よりも強い権力を持っている。

 

公安局が厚生省の下部組織にあるというのは時代が逆行した発想とも言い切れないかもしれない。

 

最近では、あるお笑い芸人が健康調査をして医師から治療を宣告されるテレビ番組があった。医師とその治療を拒否する芸人が面白おかしく描かれているようだが、時おり怖くなることがある。

 

冗談かどうか分からないが、医師に隠れて食事などをする芸人を罵倒する言葉がネットで散見されるのである。医師と患者という関係を離れて、治療に沿わない芸人を「ダメな人間」のように視聴者が受け取るというのは、医学の介入で芸人の行動を制限することに何も疑問を抱いていないことの表れともいえる。それは「国民のため」の介入だからだ。

 

こうした現象を見ていると、「犯罪係数」導入の萌芽に思えなくもない(考えすぎか?)。

 

話が逸れてしまったが、陰鬱なSF的近未来を描きながら、体制と渡り歩く主人公にPSYCHO-PASSの持つ特徴があり、「犯罪係数」で管理される国民というのはあながち我々とも無関係ではないと感じてくる。

 

 

PSYCHO-PASSストーリー自体は実は日本のドラマによくあるパターンを丁寧になぞっているが、そこにSF要素と「国民のために」管理するという構造を入れたことが、単なるヒットで終わらず現代にマッチした要因だったのではないだろうか。