フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

ALS患者の嘱託殺人ニュースを見て思うこと

夕方にテレビを見ていたら、ALS患者に医師が嘱託殺人をしたと速報が流れた。徐々に詳細がニュースになってきており、SNS上ではあることないこと議論が巻き起こって盛り上がっている。この事件の詳細が明らかにならなければ、今後の議論の方向性が全く分からない。この段階で何やら議論を巻き起こそうとしている政治家は一人も信用ならないことだけはいえる。それだけ医療と死の関係は慎重でなければならないし、十分に検討されなければならない。

 

医学部の講義では、人体実験に関する宣言はヘルシンキ宣言であるだとか、そうした最低限の知識については習うものの、死に関して深めて議論することはない。そうしたことに興味があるならば医学部よりも文学部に行ったほうがいいかもしれない。その理由としては、医学は死そのものよりも疾患に着目している点、死は臨床での経験を経なければ理解できない、など理由は考えられる。ただ、現在の日本ではそもそも死に関して深く向き合う経験が少ない。

 

他の先進国と比較して日本が特異的かどうかは知らないが、普通に生活をしていたら死体を見ることはまずない。親戚が亡くなった際に病院や葬儀場で見ることはあるだろうが、死体と向き合うのはせいぜいが数日程度である。病院で死後すぐの遺体と遺族が向き合うことはあるが、せいぜいが1時間程度で、そのあとはひっそりと業者や医療スタッフによって綺麗に整えられる。そして葬式が終わってしまえば、自らの手を下すことなく骨のみになって箱に入って返ってくる。こうして人間の死後に向き合うことも少ないが、死に際に遭遇することはもっと少ない。

 

死に際に面することがなければ、当然ながら自分や身内が死ぬ時にどうしたいかを考えることはまずないだろう。死に向かう過程を見てきた経験がないため、死ぬ時の想像ができない。また、自分が死ぬ際にいったいどうしてほしいかということは誰にもわからない。自分にもわからない。だからリビングウィルはいつでも変更可能である。

 

今回の事案に関して感じることは、現時点の情報量では今後の死の向き合い方に関する議論の俎上に載せるべきか否かすら判断することはできないという点である。この程度の情報量で国の制度としての死の向き合い方について議論すべきか判断するのは早計である。

次に、詳細が分かってきた際に、議論すべき内容か否かの検討が必要である。今回の事案とは全く別の話だが、例えば社会的問題について議論する際に、明らかなレイシズムが根底にある人間の主張はそもそも議論の土台に上げてはならない。それはナチズムに生物学的な差異という"科学的根拠"が利用された歴史があるからだが、たとえ客観的主張に見える内容であっても、根底に明らかな倫理の逸脱がある場合には議論に付すべきではない。被疑者の動機に逸脱があるか否かを見極める必要がある。

ただし、動機に逸脱があろうとなかろうと、動機の究明(医療者に共有されるハビトゥスの存在なども含めて)は別に必要である。日本の医療者に通底する倫理観や表象としての今回の事案の発生など、なぜこうしたことを起こしてしまったかという解明は必須である。今回の問題を安易に優性思想や命の軽視などにつなげるべきでもない。そうした焦点化は、むしろ他の理由を隠蔽させてしまう危険性がある。40代の呼吸器内科で緩和ケアも行っていたという医師が、難病患者を死に至らせるような行動を取る理由は、そう簡単に説明できるものではないとも思うのである。

非合理性を認識すること

今年はマックス・ウェーバーの没後100年であるらしい。ウェーバーの死因はスペイン風邪によるものと言われているが、奇しくも100年後のこの時期に新型コロナウイルスが世界的大流行を引き起こしており、妙な共通性をつい感じてしまう。

没後100年ということもあり、中公新書岩波新書からウェーバーに関する新刊がそれぞれ出されている。まずは中公新書のほうから読んでみた。

 日本でマックス・ウェーバーといえば、社会学専攻の学生なら必ず耳にする人物(だと思う)であるが、海外では日本ほどの熱量ではないとのことを耳にする(趣味の読者なのでよく知らない)。だが、以前にアメリカの社会学会だかどこかが、学生に勧める本の中には『経済と社会』が入っていた気がするので、不可欠な人物であることも間違いない。

さて、ウェーバーの本はまだ『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と『職業としての学問』しか読んだことがない私である。感想としては、展開される論理から得られる"逆説的な"結論をよく示す、という点と、実直に論理を組み立てていく点であった。例えば、前者であれば、プロテスタントの人々は熱心な信仰心を持つがゆえに、世俗の仕事によく励みお金を貯めた、という論理である。そして、後者については、『学問』の本で登場する「知的廉直」という言葉にあるように、生真面目な性格を薄々と感じていた。

そして、この生真面目さは、本書を読んで改めて確認することとなった。

 

ウェーバーの思想には、二項対立する概念がしばしば登場する。形式合理性と実質合理性、信条倫理と責任倫理、などである。二つの概念を軸として分析することは構造化して現象を大きく見ることには有効であるが、概念から取りこぼれた領域については隠蔽されてしまう。概念化しなかったことで見えてくる別の視座からの構造は見えなくなってしまう恐れがある。ただし、その概念から見えた社会はより深化させられるという有効性もある。

偏見だが、このあたりはドイツ人らしいと感じる面であり、上部構造・下部構造だとか、ドイツのクラシック音楽のようなかっちりした構造との共通性を個人的には感じてしまう。

 

さて、それは措くとして、本書はウェーバーの境遇や価値観を提示しながら、滑らかに話が今の日本や世界に移行するところに面白さがある。その中で、投票制の話が見られる箇所がある。ウェーバー比例代表制に否定的だったとのことであるが、それは『党内の人事とカネを掌握した「ドン」のような人物が暗躍(p.194)』する可能性があり、それにより『政治的リーダーシップが損なわれる(p.195)』ことを危惧するためであった。この考え方には当時の時代背景も影響しているのだが、ウェーバーは組織が過剰になり、リーダーを潰す可能性を危惧していた。一方、今日の世界では、『政策の中身や政策を形成していく熟議をともなうプロセスよりも、「決めてくれる人」への期待が高まっている(p.202)』と筆者は述べる。

ウェーバーの思想では、近代は脱魔術化し合理化された社会として描出される。ただ、筆者は、脱魔術化によって世界から非合理でなものがなくなるわけではないと述べる。そして、

ウェーバー・ワールドでは、合理的になればなるほど、かつては偏在した非合理はカリスマの決断という一点に煮詰められていく。ニーチェは「神は死んだ」と宣告した。そしてこの「神の死」をウェーバーも共有している。しかしウェーバーの場合、かつては神が担っていたものがカリスマに委ねられる。(pp.206-207)

ニーチェは超人によって克服としたが、ウェーバーはカリスマに神の死の超克を見る。

 

今日のニュースを見ていると、「あの人は仕事をやっている」という点で国民が政治家を選ぶように見えるが、実際にその人が特に仕事をしているかどうかは明らかでないことも多い。また、何かを成したとしても、それが功罪どうなるかは数年後の評価を待たねばならないこともある。それでも、何もしないよりは何かをしている人物のほうが評価され、また、実際に同じことをしていたとしても何かをしているように見せることが得意な人物が評価されるように私には見える。

政治家として仕事をしているかという点は、一見すると合理的な評価に見える。特に財源が絡む場合には定量的に評価でき、客観的な指標としてそう見えることも多いが、これも一種の価値の尺度に依存している。自分がその価値観によって政治家を判断しているということを認識することがまず必要になってくる。

そして、その合理的な判断というものは、案外、非合理的であることも有名である。

ランドル・コリンズの『脱常識の社会学』によると、

では国家を支えるのは何なのか。つまるところ、国家は社会組織である。それは、何らかの政治的目的を達するために協同することに同意した人びとの関係を調整するものである。国家を形成する人びとは、なぜ彼らの間に交わされた契約を守るのか。(中略)純粋に合理的な観点からすれば、国家が他の組織よりもばらばらになりにくい理由は何もない。このように、国家は、それ自身がある種の前契約的連帯の基礎の上に立たなければ、社会契約をバックアップすることはできない。(p.32)

 とある。国民が合理的に行動するという仮定に立つと、背理法的に、非合理的な基盤があると考えざるを得ないと結論づけられる。

 

合理的な判断によってカリスマを選んでいると考えていても、実際には非合理的な心理によって良いと思い込んでいることがありうる。何かを為して責任を取ることに重点を置くか、何かを為すことになるまでの過程に重点を置くかは、それぞれのポリシーであろうが、自身がどの価値観を選択しているかということに敏感になる必要がある。そしてその判断には、非合理的な基盤が存在していることにも気づく必要がある。

 

そう思ってテレビを見ていても、口がうまい人には納得させられてしまう自分がいる。

Zoomがもたらす方向性の転回としての目の拡張

外出自粛が続き、暇な時間が続いている人が多いためか、新型コロナウイルス感染症が落ち着いた後の世界について語ることが増えてきたように感じる。ポストコロナなる言葉まで登場してきた。

 

確かに暇を持て余した夢想でもあるかもしれないが、とはいえ外出自粛によって普段見る景色と全く異なるものを見るようになった。全く人のいない新宿の写真もそうであるし、テレビでも画面の中で画面が集まって人が語るという一昔前のSF映画さながらの光景が日常化してきた。社会の変貌は個人のエートスの変容をもたらし、コロナ収束後の世界は今までとは違ったものになる可能性は十分にあるだろう。

 

例えば、zoomによるオンライン会議や飲み会は、自宅での仕事の可能性を拡げたが、一方で他者の目線の私的な空間への介入を許してしまった。LINEでの既読通知機能は、震災での安否確認の目的を踏まえて追加されたとの話がある。社会に大きな影響を与える出来事の後には、コミュニケーションツールの変化が生じる。

「メディア論」で有名なマクルーハンは、技術・メディアは人間の身体の拡張であると表現した。印刷技術は人間の目の拡張、電話は声の拡張、といった具合に。こうした拡張は、発信者側の拡張を主として行われてきた。本であれば著者の言葉を不特定多数に、電話であれば発信者同士の声をお互いに届ける。

一方、LINEでの既読通知は方向性が異なる。メッセージの受信者は、望むか望まないかに関わらず、そのメッセージを受けたことが発信者へ通知される。受信者の行動に他者の目線が入る込む事態を引き起こした。

今回流行しているzoomは、既読通知がより先鋭化したメディアとも捉えられる。自宅というプライベートな空間に、ビジネス関係など他者の目線が強制的に入り込む。これはバーチャル背景を用いればプライベートが遮断されるというわけではなく、通話者が「そこにいる」ことが求められる点にポイントがある。本来であれば私的な時間・空間として担保される自室において、視覚情報を含めてその人がいるということを他者に強制的に発信される。

 

社会的距離をスローガンに掲げる社会において、我々は、発展したメディアを通じて今まで以上に私的領域に入り込むことを受容するように変貌してきている。良いか悪いかは別にして。

 

 

本来は医療従事者や県外者に対する差別と社会心理学だとか、テレビでもっともらしいことを語る"専門家"の背景にある大衆社会の誕生だとか、ポストコロナにおける新自由主義の見直しだとか、わからないことをわからないと受容する社会の必要性だとか、いろいろと考えていたのだが、一つのトピックでそこそこの分量になったため、今回はここらへんで。

熱量が冷めないうちに書きたい。ではまた。

『ジョーカー』はいつジョーカーになったのか

1か月前に映画『ジョーカー』を見たのだが、その感想を書こう書こうと思っていて時間が経ってしまった。

 

SNSでもメディアでもたいへんに話題作だったので、いったいどんな作品だったのだろうかと思い、金曜の仕事終わりに映画館まで移動し、レイトショーで作品を見た。鑑賞後に最初に思ったのは、難解。そして、吐き気のような不快感が心の中に残っていた。

映画に詳しくないのだが、これがアカデミー賞は確実と言われるような名作なのか、と思いながら帰りの電車に乗っていた。

映画好きが自分の考察をひけらかしたくなるような作品だろうが、これが一般の人の心をえぐる作品になり得るのだろうかと大変に感じた記憶がある。

 

人間の心というのはある時点から悪魔になるわけでも善人になるわけでもなく、時間的に連続的なものとして変化し続けるものだと思っている。そのため、ある衝撃的な出来事がきっかけでアーサーが突然ジョーカーに変貌したとは思わない。ただ、この時にはまだジョーカーではなく、この時にはジョーカーだったという記述は可能である。

 

アーサーが最初に犯す殺人は、地下鉄での会社員を3人銃殺するところであるが、この時点ではまだアーサーはジョーカーではなかっただろう。隣人の女性の部屋に入った入ったところ(アーサーの妄想であったとしても)でも、まだジョーカーではなかったのではないだろうか。自分の生きにくさの源となったかもしれない母親を殺す時には、まだジョーカーではなかったのではないか。最初の殺人を犯すきっかけとなった同僚のランドルを殺した時点では、もしかしたらジョーカーだったかもしれない。テレビ番組の放送中にマレーを銃殺した時にも、もしかしたらジョーカーだったかもしれない。そして、ラストシーンでカウンセリングを受けている時点では、ジョーカーだったと思われる。

 

アーサーはコメディアンになりたいという願望を持っているが、繰り出されるギャグはどれも面白くなく、残念ながら独りよがりな内容に過ぎない。一般的に、人を笑わせる人間は実は常識人でなければならないと言われる。笑いというのはいろいろに表現をされる。「緊張の緩和」「期待の裏切り」「人との違いを笑う」などなど。ただそれらのいずれにも前提として共通するのは、「世の中の人々」という認識という枠組みがあることである。

世の中の人々は、社会的な状況でどのような場面に緊張状態を感じるか、ある場面で次に何を期待しているか、特定の人は社会に多数の人々と何が違っているか、という認識を分かっていた上で笑いを組み立てなければならないのである。したがって、はなから認識が世間とずれている人というのは笑いを生み出すのは難しい。そして、アーサーは間違いなくそういった人物である。

しかし、それでもピエロとなりコメディアンとして活動している時には、希望を捨てずに人々を笑わせるという夢を持って活動している。仕事をクビになった後も、自分の笑いが通用すると信じて活動していた時には、まだジョーカーではなかったのではないだろうか。

 

ジョーカーになったのはいつか。言い換えれば、人を笑わせることを諦めたのはいつか。つまり、自分の感性を他人の共有することが不可能だと確信した時に、アーサーはジョーカーとなったのである。

 

映画の最初でカウンセリングをした時点では、自分がつけているネタ帳をカウンセラーに見せることをしていた。一方、映画のラストでカウンセリングをしている場面で、アーサーは不意に笑い出す。カウンセラーが問うと、ジョークを思いついたというようなことを言う(と記憶しているが1か月前に見たので曖昧になっている)。

しかし、そのジョークを口にすることはなく、アーサーは一言「(言っても)理解できない」と告げて、ジョークを言うことなくカウンセリングは終了する。

自分の価値観を他者と共有することを諦めた時というのは、いわば社会から完全に孤立することをいとわなくなった時である。この時すでにアーサーは、ジョーカーとなっていた。

では、アーサーはなぜジョーカーになったのか、という疑問がわくのであるが、私はこの映画の中からそれを見出すことはできなかった。人間を形成する要因というのはあまりにも多くが関与しており、その社会を形成する要因もあまりにも多くがありすぎる。

 

ジョーカーの出現で街にあふれた暴徒は、社会的地位の高い金持ちの人々を襲うのであるが、その点が私には残念だった。自身が不遇な生活をしているという憎悪の対象を、ただ経済的理由にだけ向けるというのは、人間の心理を単純化しすぎている。50年前、100年前であればそれで納得がいっただろうが、何か目に見えないが不遇となっている何かがあるはずだという表現をされれば、より現代な状況に近い雰囲気を描けたのではないだろうか。ただ、それもバットマンの父親が殺された描写とセットとなっており、もしかしたら経済的状況だけでない閉塞感が生まれた時代の社会を救うヒーローとして、バットマンが登場すると暗示するという希望も持てるのかもしれない。

他人の人生をわかる困難さ ―映画『ラストエンペラー』をみて

映画『ラストエンペラー』をようやく見た。ようやく、というのは、坂本龍一ラストエンペラーを以前から聴いていて、いつか映画そのものを見たいと思っていたからである。

メインテーマを先行して映画を見るというパターンもあまりないかもしれないが、『戦場のメリークリスマス』や『ティファニーで朝食を』の音楽は誰しも知っているものの映画を見たことがない人も結構いるかもしれない。そう思うと、実際はそんなに珍しいパターンでもないかもしれない。

 

映画を見れば誰しも抱くであろう感想は、中国最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が時代に翻弄され利用された、波乱に満ちた人生だったという点だろう。幼少期にまだ何も分からない状態で西太后に皇帝に任命され、母の死に際しても紫禁城から出られず、クーデターで紫禁城から追放され、満州国の皇帝として即位するが政治的に利用されるに過ぎず、皇后の婉容はアヘン中毒になり・・・と順に書くといっぱいになってしまう。簡単に見れば、幼いころに紫禁城に連れていかれ、時代が変われば紫禁城から追い出され、また時代が変われば日本に利用され、また時代が変われば中国に政治犯として捕らえられ・・・と常に時代と社会権力に翻弄された人生であったわけである。

映画の終盤で政治犯の収容所で菜園の手入れをしながら、看守に「放っておいてくれ」と語る場面に、世間に利用されてきた人生の悲痛さが描かれている。

 

しかし、やはり私の心に残ってしまうのは、歴史的建造物として展示されるようになった紫禁城に溥儀が訪れる場面である。かつて自身が座っていた椅子が展示されており、そこで監視役を務める子どもに、自分が最後の皇帝だったことを告げる。

場面は変わり、大勢の観光客が騒がしく紫禁城に入って見物するところで、大声で説明する添乗員が「溥儀は3歳で即位し、1967年に亡くなった」と、たった一言で人生を言い表して映画は終了する。

 

三島由紀夫安田講堂全共闘の東大生と対談をした映像の中に、天皇との個人的な関わりを話す場面がある。その際に三島は、「個人的な歴史」という言葉を用いていた。

そう、個人的な歴史が誰しもあるのである。

溥儀の人生も、この映画で波乱さに共感し、胸の奥からぐっとこみ上げてくる虚しさになんとも表現しがたい感情にはなるが、その人生の激動さを知っているのはその人自身でしかないのである。我々は、他人の人生を頭の中で想像し、理屈の上で理解することはできるが、感覚的には到底理解できないのである。どれだけ歴史的事実がどうであったかを人が議論しようとも、その人自身が経験し、記録にも残されずに記憶にのみ蓄積されていったものは膨大な量なのである。そしてそれはその人にしか分からない人生の重みなのである。

それでも他人の人生に共感し、こちらの解釈で勝手に感情が揺さぶられるのは、人間のエゴともいえるが、希望も持てる側面でもあるかもしれない。

 

私としては、仕事柄、病気を患った人に接する機会が多い。毎日複数の病気を患った人に接していて、なぜ平気でいられるかと考えてみると、それは他人の人生にそう簡単に共感できるものではないから、というのがあるかもしれない。

サービス業でも何であっても、人と接する機会が多い人はみなそう感じるのではないだろうか。目の前の客に対して「要望が多いうるさいやつだ」とか「何をしてほしいのかはっきりしない人間だ」とか思うことはあっても、その人間がどんな人生を歩んできたかなどと考えることはない。そんなことをしていたら到底もたない。

それでもふっと考えることがある。長く病床に臥していて、そのまま回復の見込みもないような人と接する時、病室で写ったテレビではいつも変わらず今日の献立や流行りのドリンクなどの放送に目が行くことがある。私が家に帰り、休日にどこか遠くに遊びに行っている間も、この人はずっとこの病室で、ただ時間が流れるのを感じている。しかし、きっとこの状態に至るまでには、私と同じように両親があり、学校に行き、仕事をして、という生活をしてきたのだろう、と。

 

溥儀の人生も、「3歳で即位し、1967年に亡くなった」と表現しようとも、3時間近い映画を見ようとも、本当の意味でわかることはできない。それは本人にしか分からないのである。それでも、この映画がこれほどヒットし、評価されているのを見ると、他人の人生に思いを馳せることの希望はあるのではないか。

 

目の前で病人が亡くなった際に、残念だったり仕方がなかったと思ったりすることはあるが、心が揺さぶられて涙が出たことは私にはない。しかし、家族に対して死亡が伝えられ、家族が遺体に対して語ったり涙を流したりしているのを見た時にはやはり感情が揺さぶられてしまう。それはその場面に、その人の人生が少しだけ見えるからなのだろう。その時になって初めて、その人が歩んできたものが見える気がするからなのだろう。

 

まとまりがなくなってしまった。何か最近自分が思っていることを吐き出したくて文章を書いた感じである。

ちなみにラストエンペラーと実際の史実との比較に関しては言及しない。

『ボラード病』(吉村萬壱、2014)の感想

 PSYCHO-PASSがBSフジで再放送されているのを見ていたら、いわゆるディストピア小説を読みたいと思うようになった。ネットで調べ、『ボラード病』という作品がページ数も多くなく読みやすそうだったので、お盆休みを使ってほぼ1日で読み切ってしまった。

ネタバレも含むかもしれないので、まだ読んでいないという方は注意が必要かもしれない。

ボラード病 (文春文庫)

ボラード病 (文春文庫)

 

ネットのレビューを読むと、どうやらこれは東日本大震災後の日本の雰囲気にヒントを得た作品なのだろうが、いや、著者って少し性格が悪くないですか。

経歴を見ると愛媛県出身で、京都の大学を出ているようで、自身の"故郷"としての拠り所が西日本にあるとすると、果たしてこれが阪神淡路大震災後だったとしたらこんな作品を書いただろうか。

私は東の人間で、東北にも少しルーツがあるためか、西のシニカルな人間にはこういう風に見えていたのだろうか、という印象もあった。

 

とはいえ、著者の作品を他に読んでいないし、普段から小説を読まないので、第一印象としての感覚はここまでとして。

 

物語の冒頭はいかにも平凡な日常の風景だが、春の陽気のような和やか雰囲気ではなく、どこか常に曇り空で薄暗いような陰鬱な雰囲気をまとっている。穏やかな世界の描写の中に紛れ込んだズレた表現や突然の狂気じみた自身の感情がはっきりと現れることで、表面的には上手く回っている社会の不具合さが巧みに表現されている。

また、その語り手が幼少期の独白という形式を取っている点が不気味さに拍車をかけている。純真無垢なものである子どもたちが見えているはずのものを見ないように努めて生きている点で、社会の異常さの印象が増幅される。土井隆義『友だち地獄』(筑摩書房、2008)の中で、当時の中学生が書いた川柳として「教室はたとえて言えば地雷原」との表現があるが、人間関係の深い核心にまでは関与せずに仲良く過ごそうとする現代の日本人的な仲良しが表現されているようである。

また、本当はこの語り手は30代であるが、過去の回想もあって文章の末尾が「でした」「ました」でほとんど終わっている点も全体の不気味さに反映される。途中まで、中学生くらいの人間が過去を思い出しているのかと思っていた。言葉遣いは大人びているが、文章の雰囲気に広がりがない。この語り手は隔離されてからまともな教育を受けてこなかったか、あるいはこの国の疾患には高次脳機能障害も出るのではないかということをイメージさせる。

 

社会を維持している紐帯に反することを表明すると「病気」として隔離される。この点はPSYCHO-PASSと共通性がある。

また、同じく監視社会を描いた『1984年』は権力の維持のための権力として国民を統制したが、この作品では権力者を信奉する描写はなく、住民は何に支配されているかというと、海塚という町であり、隣の人間同士である。権力者側の描写は「スーツ姿の男」というものがあるが、結局のところそれが何であるかは明らかにされない。むしろ息苦しさを感じさせるのは地域の繋がりを強調するすぐ近くの人々である。

ではこの人たちを何が駆り立てているのかというと、おそらくそれは「空気感」である。周りがみんなそうしているし、違うことを言ったら村八分にされる、だから周りに合わせれば問題ない、という空気である。だからこそこの作品は、海外のSF作家ではなく日本人の日本にありがちな地域の名前を付けることに大きな特徴がある。

 

近頃、いろいろなニュースを見ていると、このタイミングではやっちゃダメだよね、とか、あんなものに税金を使って展示するな、という声が、"そのへんにいる日本人"からしきりに聞こえるようになった気がする。

以前は、活動家が車の上から駅前で演説をしていた内容だったと思うのだが、いつしか身近な人が当たり前のようにそんなことを口にするようになった。

個人的な経験だが、身近な人間に少し違うことを言ったら、「思想的に偏っている」と言われたことがある。世間の空気と違うことを言うと、カテゴライズして隔離しようとする人が増えている印象が私にはある。

全員がドウチョウする中、「でもこれってさ」と一言を普通に言えない社会は、実はもう目前なのかもしれない。

医療と社会的つながり

テレビを見ていたら情熱大陸上野千鶴子が特集される回だったので、ぼんやりと眺めていた。一緒に見ていた母親がうるさかったので、内容をほとんど把握できなかった。だが、途中で、「日本は家族の呪縛が強すぎる。家族 is the bestという考えが未だにある」というようなことを言っていた。

おそらくこれは、幸せな家庭で生活できている人々からすると、家族 is the bestで何が悪い、と感じるだろうし、不幸せな環境であればその通りに感じることだろう。

ただ、幸せな家庭にある人こそ、老後を考えると家族に居場所を求めすぎるのは危険であるように感じる。

 

WHOは「健康の社会的決定要因」として10項目を挙げている*1。近ごろ健康格差というワードが話題になっているが、おおよそそれで取り上げられるのは経済的な問題と社会的地位が多い。もちろんそれも重要な点であるが、そうした主張はしばしば特定の政治的主張が前提にあり、健康格差がその主張に利用されがちになってしまう。今回は10項目の中でも「社会的支援」を考えてみたい。

「社会的支援」とは簡単に言えば、社会とのつながりである。つまり社会とのつながりが少ない人は病気になりやすいので、つながりを持つべきということである。

経済力のない人や社会的地位の低い人では、社会的つながりも希薄になるため、健康被害も生じやすいらしい。確かにそうなのだろうが、その主張のみではすべての解決策を社会全体の問題に帰結させてしまうため、地道な解決につながりにくい。また、そもそも日本では核家族化が進み、子どもが自立して家を離れた後に配偶者が死亡した場合、高齢者の一人暮らしをせざるを得ない状況になりうる。こうした意味で、家族にのみコミットするのは将来の孤独を生みかねないという危険性がある。

 

で、私は、消失された共同体を、現代的な形で再生することが近道なのではないかと考えている。しかし、何もつながりのない人々に共同体を形成せよと言うのは困難な話であるため、これは"医療"を媒介にするのが一つの策ではないかと思っている。

 

以前に田舎の診療を見学した際、週に一度ほど診療所の医師が集落の集会場に出向いていき、診察と薬の処方を行うという光景を目にした。その集落では、集会場に集まり、全員の診察が済んだ後、住人が持ち寄った食べ物などを食べながら談笑するという時間が設けられていた。

 

特定の地域住民の人々(特に高齢者)が、共通して抱えている可能性の高いのは何かしらの疾患であり、それにより通う可能性が高いのは地域の診療所や病院である。すなわち、つながりのない地域であっても、住民が共通して訪れる可能性があるのは診療所や病院なのである。

これを逆に利用し、その地域の人々が集う場を提供し、つながりの形成を促すことはできないものだろうか。例えば、あくまで思い付きの例であるが、特定の曜日の診察では近くにお茶やお菓子などを食べながら住民や医療スタッフと会話をできる場を設ける、などである。

 

参画する共同体がない人々に、医療を媒介として社会的つながりを形成する場を提供すれば、現代的なゆるやかな共同体の形成が可能なのではないか、と思った日曜の夜でした。