フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

ALS患者の嘱託殺人ニュースを見て思うこと

夕方にテレビを見ていたら、ALS患者に医師が嘱託殺人をしたと速報が流れた。徐々に詳細がニュースになってきており、SNS上ではあることないこと議論が巻き起こって盛り上がっている。この事件の詳細が明らかにならなければ、今後の議論の方向性が全く分からない。この段階で何やら議論を巻き起こそうとしている政治家は一人も信用ならないことだけはいえる。それだけ医療と死の関係は慎重でなければならないし、十分に検討されなければならない。

 

医学部の講義では、人体実験に関する宣言はヘルシンキ宣言であるだとか、そうした最低限の知識については習うものの、死に関して深めて議論することはない。そうしたことに興味があるならば医学部よりも文学部に行ったほうがいいかもしれない。その理由としては、医学は死そのものよりも疾患に着目している点、死は臨床での経験を経なければ理解できない、など理由は考えられる。ただ、現在の日本ではそもそも死に関して深く向き合う経験が少ない。

 

他の先進国と比較して日本が特異的かどうかは知らないが、普通に生活をしていたら死体を見ることはまずない。親戚が亡くなった際に病院や葬儀場で見ることはあるだろうが、死体と向き合うのはせいぜいが数日程度である。病院で死後すぐの遺体と遺族が向き合うことはあるが、せいぜいが1時間程度で、そのあとはひっそりと業者や医療スタッフによって綺麗に整えられる。そして葬式が終わってしまえば、自らの手を下すことなく骨のみになって箱に入って返ってくる。こうして人間の死後に向き合うことも少ないが、死に際に遭遇することはもっと少ない。

 

死に際に面することがなければ、当然ながら自分や身内が死ぬ時にどうしたいかを考えることはまずないだろう。死に向かう過程を見てきた経験がないため、死ぬ時の想像ができない。また、自分が死ぬ際にいったいどうしてほしいかということは誰にもわからない。自分にもわからない。だからリビングウィルはいつでも変更可能である。

 

今回の事案に関して感じることは、現時点の情報量では今後の死の向き合い方に関する議論の俎上に載せるべきか否かすら判断することはできないという点である。この程度の情報量で国の制度としての死の向き合い方について議論すべきか判断するのは早計である。

次に、詳細が分かってきた際に、議論すべき内容か否かの検討が必要である。今回の事案とは全く別の話だが、例えば社会的問題について議論する際に、明らかなレイシズムが根底にある人間の主張はそもそも議論の土台に上げてはならない。それはナチズムに生物学的な差異という"科学的根拠"が利用された歴史があるからだが、たとえ客観的主張に見える内容であっても、根底に明らかな倫理の逸脱がある場合には議論に付すべきではない。被疑者の動機に逸脱があるか否かを見極める必要がある。

ただし、動機に逸脱があろうとなかろうと、動機の究明(医療者に共有されるハビトゥスの存在なども含めて)は別に必要である。日本の医療者に通底する倫理観や表象としての今回の事案の発生など、なぜこうしたことを起こしてしまったかという解明は必須である。今回の問題を安易に優性思想や命の軽視などにつなげるべきでもない。そうした焦点化は、むしろ他の理由を隠蔽させてしまう危険性がある。40代の呼吸器内科で緩和ケアも行っていたという医師が、難病患者を死に至らせるような行動を取る理由は、そう簡単に説明できるものではないとも思うのである。