フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

『ボラード病』(吉村萬壱、2014)の感想

 PSYCHO-PASSがBSフジで再放送されているのを見ていたら、いわゆるディストピア小説を読みたいと思うようになった。ネットで調べ、『ボラード病』という作品がページ数も多くなく読みやすそうだったので、お盆休みを使ってほぼ1日で読み切ってしまった。

ネタバレも含むかもしれないので、まだ読んでいないという方は注意が必要かもしれない。

ボラード病 (文春文庫)

ボラード病 (文春文庫)

 

ネットのレビューを読むと、どうやらこれは東日本大震災後の日本の雰囲気にヒントを得た作品なのだろうが、いや、著者って少し性格が悪くないですか。

経歴を見ると愛媛県出身で、京都の大学を出ているようで、自身の"故郷"としての拠り所が西日本にあるとすると、果たしてこれが阪神淡路大震災後だったとしたらこんな作品を書いただろうか。

私は東の人間で、東北にも少しルーツがあるためか、西のシニカルな人間にはこういう風に見えていたのだろうか、という印象もあった。

 

とはいえ、著者の作品を他に読んでいないし、普段から小説を読まないので、第一印象としての感覚はここまでとして。

 

物語の冒頭はいかにも平凡な日常の風景だが、春の陽気のような和やか雰囲気ではなく、どこか常に曇り空で薄暗いような陰鬱な雰囲気をまとっている。穏やかな世界の描写の中に紛れ込んだズレた表現や突然の狂気じみた自身の感情がはっきりと現れることで、表面的には上手く回っている社会の不具合さが巧みに表現されている。

また、その語り手が幼少期の独白という形式を取っている点が不気味さに拍車をかけている。純真無垢なものである子どもたちが見えているはずのものを見ないように努めて生きている点で、社会の異常さの印象が増幅される。土井隆義『友だち地獄』(筑摩書房、2008)の中で、当時の中学生が書いた川柳として「教室はたとえて言えば地雷原」との表現があるが、人間関係の深い核心にまでは関与せずに仲良く過ごそうとする現代の日本人的な仲良しが表現されているようである。

また、本当はこの語り手は30代であるが、過去の回想もあって文章の末尾が「でした」「ました」でほとんど終わっている点も全体の不気味さに反映される。途中まで、中学生くらいの人間が過去を思い出しているのかと思っていた。言葉遣いは大人びているが、文章の雰囲気に広がりがない。この語り手は隔離されてからまともな教育を受けてこなかったか、あるいはこの国の疾患には高次脳機能障害も出るのではないかということをイメージさせる。

 

社会を維持している紐帯に反することを表明すると「病気」として隔離される。この点はPSYCHO-PASSと共通性がある。

また、同じく監視社会を描いた『1984年』は権力の維持のための権力として国民を統制したが、この作品では権力者を信奉する描写はなく、住民は何に支配されているかというと、海塚という町であり、隣の人間同士である。権力者側の描写は「スーツ姿の男」というものがあるが、結局のところそれが何であるかは明らかにされない。むしろ息苦しさを感じさせるのは地域の繋がりを強調するすぐ近くの人々である。

ではこの人たちを何が駆り立てているのかというと、おそらくそれは「空気感」である。周りがみんなそうしているし、違うことを言ったら村八分にされる、だから周りに合わせれば問題ない、という空気である。だからこそこの作品は、海外のSF作家ではなく日本人の日本にありがちな地域の名前を付けることに大きな特徴がある。

 

近頃、いろいろなニュースを見ていると、このタイミングではやっちゃダメだよね、とか、あんなものに税金を使って展示するな、という声が、"そのへんにいる日本人"からしきりに聞こえるようになった気がする。

以前は、活動家が車の上から駅前で演説をしていた内容だったと思うのだが、いつしか身近な人が当たり前のようにそんなことを口にするようになった。

個人的な経験だが、身近な人間に少し違うことを言ったら、「思想的に偏っている」と言われたことがある。世間の空気と違うことを言うと、カテゴライズして隔離しようとする人が増えている印象が私にはある。

全員がドウチョウする中、「でもこれってさ」と一言を普通に言えない社会は、実はもう目前なのかもしれない。