フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

Eテレ『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』を見て思ったこと

ひょんなことから普段使っているTwitterのアカウントが凍結されてしまい、未だに凍結の解除ができずにいるため、しばらくTwitterを眺めていない。Twitterで告知したい内容があったタイミングだったのでかなり不便に感じたが、有象無象のリツイートを見ずに過ごすというのも悪くないかもしれない。

 

さて、最近思ったことを特に方向を考えずに書くので、何か結論があるというわけではない。

 

先日そろそろ寝ようかと思っているときにたまたまEテレをつけたら、『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』なる番組が再放送されていて、ついつい最後まで見てしまった。太平洋戦争によって精神疾患を発症した日本兵の診療録をもとに、どのような人がどのような状況でどのような症状を発症しどのような経過をたどったかを特集するドキュメンタリーであった。

国府陸軍病院で診察された、約8000人の、戦争によって精神疾患を発症した患者のカルテが残っていたということがまず驚きだったが、そのカルテをもとにどこの戦地で何人発症したか、何の疾患を発症したか、ということまで分析していたのが興味深かった。

録画していなかったので詳細はうろ覚えだが、疾患の内訳は統合失調症が多数を占め、他は外傷性てんかんなどが並んでいたという記憶がある。その当時はPTSD心的外傷後ストレス障害)という疾患概念がなかったため、おそらくPTSDに該当する症状を示した患者の疾患名は「臓躁病」と記載されていたという。

 

少し前に、戦後よく見られた「カミナリおやじ」は、実は戦争によってPTSDを発症した人だったのではないかという記事が話題になっていた*1

こういう記事を見ると、戦争で発症する精神疾患といえばPTSDという認識が勝手にできあがってしまうが、実際には多様な精神疾患を発症するということがわかる。

 

ふと思い出したことがある。私の母が高校生だった頃、当時の英語の教師が、普段は穏やかに話す人なのに、突然授業中に「B-29が来るぞ!」と叫んで、生徒はみんな机の上に伏せさせられていたことがあったという。とはいえ高校生なので、その中の誰かが伏せながらも笑うと、チョークを投げられ、「何笑ってるんだ!」と怒鳴られたらしい。しばらくすると、何事もなかったかのようにまた授業を再開していたそうだ。

その話を聞いた当時は変なおっさんの面白い話くらいに思っていた。

専門家でもなんでもないので詳しくは言えないが、PTSDの症状は再体験症状、回避/麻痺症状、覚醒亢進症状の3群から構成されるという*2。この教師が突然こう叫んだのも、フラッシュバックによる再体験症状だったのではないかと今になると分かる。

同書ではPTSDと海馬の萎縮に関する知見について記されているが、遺伝因子と環境因子の両論併記し、海馬の萎縮がPTSDの原因か結果かはなお検討が必要だと記している。心理学分野では、モノアミンオキシダーゼAの活性が低い子どもでは虐待を受けるとより反社会的行動を取る傾向にあるというデータがあるようだ*3。個人的には、PTSDに関しても、遺伝因子と環境因子の相互作用による、とするデータが出てくるのではなかろうかという感じがする(もう出ているのか知らないし、ド素人が勝手に思っているにすぎないが)。

 

考えてみると、医学部の教育では、Evidence Based Medicineと言われるようになったためか、疫学調査臨床試験の手法について教わることは多いが、こうした病跡学的なというか、過去のデータからアプローチするということは一切ないように思う。今回の特集でも、こうした仕事は歴史学の仕事のようであった。むしろ、こうした多くのデータが残っている事例が稀有なほうであり、これを適応できる事例のほうが圧倒的に少ないからであろう。

しかし考えてみると、疫学調査などは実際のところ文系的な仕事のように見える。

いわゆる理系と文系の手法の違いの一つに、再現性の有無があると思われる。理系では同じ状況を再現し、同じ事象が観測されるか否かなどを量的・質的に調べることができる場合が多いだろうが、文系で歴史や集団などを扱う場合には再現性の確保が困難となる。もう一度江戸時代と同じエートスを有した人々、社会制度、地理的条件、など諸々を確保し実験をすることなど不可能である。

そうしてみると、疫学調査でのケースコントロール研究では、再現できない過去を振り返って検討するという意味で文系的発想に近い気がする。しかし、医学は自然科学的な顔をしているためか、歴史学ほど文献を頼りにするという手法は医学にはなじまないというように思えてくる。だが今回のEテレの特集のように、今の医学のみならず後世の歴史学にも役立つ可能性だってあると考えると、「記録を残す」という面で、エビデンスレベルは低いが症例報告というのは地道でありながらも重要な意味を持つのだろうという気もしてくる。

 

C.ライトミルズの『社会学的想像力』(ちくま学芸文庫、2017)では、社会科学が政治や行政の権力の正統化に利用されるように変化したと述べられている。それにともなって、ラザースフェルドの定量的な社会調査を空疎なものになりかねないと批判している。

社会科学の問題は普通、歴史的社会構造と関連をもつ概念によって立てられるものである。そうした問題をリアルなものとみなすのであれば、結果はどうあれ、まずは構造的に意味のある問題を研究し、解明するのに役立つ推論を引き出すことができるかどうかを確かめるべきである。そうした確認もせず、小さな範囲ばかりを精密ぶって研究するのはばかばかしいと思われる。(p.120)

ライトミルズがここまで厳しく批判しているのを見ると、ちまたにある、意味のある問題かどうかすらわからず、かつ方法的にも粗末な分析をしているような調査は学問的には本来は価値がないはずのものだというのがわかる。 

もしかしたらそんなデータを集めて何になるのだという疫学調査もあるのかもしれない。方法論的に確立された手法であるため科学的には見えるが、その差が本質的に何の意味があるのだという研究も世の中にはあるのかもしれない(知らないけれど)。

とはいえ、臨床で患者を診る中で、ある一定の法則を経験的に感じ、それを疫学調査に応用するという流れが一般的であろうから、「それ調べて意味あります?」というものはそれほどないのかもしれない。

 

 

あまりに話があちこちに飛びすぎて本当にまとまりがなくなってしまった。引用もあまりにも強引な文章になった。

まぁ、今回は、「最後に参考文献を番号でまとめるとそれっぽくてかっこよく見える」ということが結論で。

*1:「カミナリおやじ」は誰? 平野啓一郎 :日本経済新聞

*2:大熊輝雄. 心的外傷後ストレス障害(PTSD). 現代臨床精神医学. 改訂第12版: 金原出版; 2013. p.287

*3:Caspi A, McClay J, Moffitt TE, Mill J, Martin J, Craig IW, Taylor A, Poulton R 2002 Science 297:851-854