フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

映画『レナードの朝』感想

またしばらくブログを更新していなかった。大して面白いことも書けないだろうが、久しぶりに映画を見たのでその感想を。

 


レナードの朝 - 予告編

 

以前から名作の存在は知っているが、突発的にその作品を見てみたくなることがある。今回、映画自体久しぶりに見たのだが、『レナードの朝』はそういった類の作品である。

この作品は、オリバー・サックスというイギリス出身でアメリカで脳神経科の医師として活躍した人物の著作を元に作られた映画である。

この作品の核となる疾患は嗜眠性脳炎という疾患であり、1920年代頃に一定数の患者が見られたものらしい。らしい、というのは、大学の講義でも実臨床でも(非常に少ない経験年数だが)、目にしたことがないからだ。

映画を見ると、現在では精神科が専門で扱う症例と、神経内科が扱う症例が、神経科として同じ病棟に入院している。これは時代的な背景によるものか、日本と違う専門の分け方によるものかはわからない。現在では嗜眠性脳炎神経内科が扱う疾患になるだろう。また、この映画で登場する医師の雰囲気もどちらかというと神経内科医らしさがある。

 

人とのコミュニケーションが苦手そうなセイヤー医師(ロビン・ウィリアムズ)が、研究職のポストと思い赴任した病院で神経科の臨床医を任される。最初は戸惑いながらも懸命に臨床に励む姿はなんとも感慨深い。そこで、非典型的アルツハイマー病と診断されていた女性を診察し、普段は意思疎通が困難で動作も緩慢であるにも関わらず、落とした物を俊敏にキャッチするという所見に気付く。同様の所見のある複数の患者に共通する嗜眠性脳炎という疾患に目を向け、動作が緩慢であったりほとんど動かなかったりするのは、振戦が極度に進行したためと考え、それに効果がありそうなL-dopaを投与することを試してみる。そこで最初に投与された患者が、レナード(ロバート・デ・ニーロ)であった。

 

さんざん各所で書かれているであろうが、登場する役者の神経疾患の症状の演技は目を見張るものがある。前半の患者のパーキンソン症候群(パーキンソニズム)の表現、そして後半のデニーロによるジスキネジアの動きはとても良くできている。もちろん、神経内科の専門医からすれば、実際の動きと違うと言うかもしれないが、映画の視聴者からして演技と思わせない巧みさは十分にある。

パーキンソン症候群は一般に四大症状として、無動、固縮、安静時振戦、姿勢反射障害が挙げられる。このうち、嗜眠性脳炎の患者の演技として無動、姿勢反射障害が表現されていた。また、他に、独特の前傾姿勢、すくみ足、足元の線があると歩きやすくなるなど、実際の症状の表現があり、妙な脚色は抑えられたものであった。

L-dopa投与で一時は回復したレナードに再度症状が出現する描写では、ジスキネジアが表現されている。一般に、パーキンソン病が進行するとL-dopaの効果時間が短くなり、症状に変動が起こるwearing off現象というのが出現するといわれる。この映画でレナードに出現している、髪をとかしながら手が大きく揺れる、女性と話しながら顔を突然しかめる、歩きながら腕がくねくねと動く、などの動きはジスキネジアの表現と考えられる。

 

と、ここまで演技の巧みさを実際の疾患の症状と併せて書いたが、この映画で印象深かったのはそれよりも、これらの患者がいったいどんな気分でいたろうか、そして、セイヤー医師はどんな気分だったろうか、ということである。実際の原作のサックス医師の著作を読めばもちろん理解できるだろうが、今回はこの映画作品として勝手にいろいろ考えてしまった。

数十年間ベッドから動くことができなかった人々が、突如として身体の自由を取り戻す感覚というのは想像するには難しすぎる。人間は自分の手足を自由にコントロールでき、基本的には体の大きな不調を抱えずに暮らしている。風邪などで関節痛などが出現した際に、初めて自分の腰や腕の存在が意識される。こうしたときに人は、自分の身体は自分でコントロールできない感覚に至る。それが悪化すると、全能感の喪失として現前してくる。

あるとき、全能感を喪失した人々が数十年間に渡って身体の自由を奪われ、それが突然回復した時の心情はいかなるものか。そしてほんのひと時だけ「人生」を謳歌し、それがまた去っていってしまった時の絶望感はどれほどだろうか。

レナードが恋した女性と病院の食堂で話すシーンで、レナードは「これで"さよなら"だ」と言って立ち去ろうとする。このセリフは、自分から身を引いて女性と会うことをやめるという意図もあろうが、私には、再び病気の悪化により「人生」を終えなければならないという痛切な予感に思える。

人との意思疎通や自分の身体性を喪失することは、社会的動物である人間としての死を意味することに等しいかもしれない。もちろん、その時にその人は実際に何を考えているのか、ということはその人自身にしかわからない。したがってそのような断定は決してできず、あくまで予想にすぎない。だが、獲得した身体を失っていく恐怖や絶望感というのは想像してもしきれない。

一方で、一度は人生を与えられることができると思ったセイヤー医師も、薬剤が効果を得られず再び悪化していく患者を見る心情というのはどれほどだったろうか。

 

日々の仕事の中で、高度の認知症高齢者で意思疎通が困難であったり、麻痺があったりする人物と接すると、時間がなくて表面的なやり取りしかできない場合がある。まして、認知症患者では、どうせ理解できないと思ってしまっていることもある。だが、本当に理解しているかどうか、情動があるのかどうか、などは当人にしかわからない。当人がどんな世界を見ているのかはわかりようがない。どれほどAIの技術が進歩しようが、予想は立てられても観測することは困難であろう。

こうした心優しい人物がいるという、仮に創作に過ぎなかったとしても、その認識で少しでも優しく接せられる人間になれたら、と考えずにいられない。

 

とても綺麗な曲。

Dexter's Tune

Dexter's Tune

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