フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

『わたしの哲学入門』(木田元、講談社、2014) 感想

 本の感想が連続してしまうが、今回は「わたしの哲学入門」(木田元講談社、2014)の感想を書いてみようと思う。

わたしの哲学入門 (講談社学術文庫)

わたしの哲学入門 (講談社学術文庫)

 

 この本は、冒頭でさっそく、

…どうにも哲学が気になって仕方がないのだ。そういう人たちで、しかもなかなか哲学に近づけないでいる人たち、この人たちをもう少しうまく哲学に案内してあげる手立てがあるのではないか、と思ったのである。(p.18)

と書いてある通り、素人向けに分かりやすく哲学の流れの要所(と素人の私は考えている)を説明されている本である。はじめは著者が、なぜ、どのように哲学を学ぶようになったかという体験から記されており、第六回のあたりから本格的な説明が始まってくる。

とはいえ、こうした入門書にありがちな、後半に行くと話が込み入って来て、結局なにを言っているのか分からなくなる、ということはあまりなく、常に丁寧に説明しようという著者の人柄が感じられる。 

 

余談だが、こうした「入門」とか「1日1章」とか冠してある本をパラパラと見て、後半部分を見ると「うわ~こんな難しいことがこれを読んでいるうちに分かるようになるのか~」と思うことがよくある。まだ今は分からないけど読んだら分かるようになるんだな、と最初に感じる本は、実際読み進めてみても結局分からないままになるものである。良い入門書というのは、常に分かりやすい言葉遣いで、いつの間にか深淵に連れて行ってくれるものである気がする。

 

この本では、ハイデガーを主において、ギリシャから始まる哲学を眺めるという構成になっている。そこで「本質存在(何であるか)」と「事実存在(~がある)」という概念が出てくる。プラトンから事実存在に対する本質存在の優位性が形而上学で主張され、それが西洋の思想を通底しているとハイデガーは見ているらしい。

英語で存在を意味する be というのは、そのあとに名詞を付ければ「~である」と言える。対して「~がある」と言う場合には、頭に there を付けなければならない。つまり、このあたりにも、西欧人が「存在」と聞けば、まず本質存在を想起するということが表れているという。(p.238)

そして、この本質存在の優位性をひっくり返そうとする試みが何度か哲学者によってされてきた、という話が全体としての要約になるだろうか。

 

 

高校倫理でかじった程度の知識しかない私だが、こうした説明がスッと腑に落ちた気がする。哲学に関して全くの門外漢なので(というか哲学専攻の人おっかないし)、非常にざっくりした内容説明で終えた。ただ、こうして西洋思想を俯瞰して説明される本だからこそ、いま世界を覆う合理化、産業化、自然科学的思考は、西洋からでしか生み出されなかったろうと改めて感じた。

この本では、神様のものであった理性を人間が一部借りさせてもらっているんだ、とデカルトが言って、ヘーゲルによって理性は神様のもとから人間の手に降りてきたのだと言っている。ニーチェ形而上学的な原理は思い込みだとし、「力への意志」という「より大きくより強くなろうと意志する」生命概念を出した。そこで、いま世界を覆う社会の土台が完成したのではないかと感じる。

自然科学、産業、哲学、どれがきっかけで社会変動が起こっているのかという議論は、鵜が先か卵が先かという議論であり、結論付けることが困難である。だが、こうした思想は全てパラレルに連動しており、我々の考え方や行動もそれらによって形成されている部分が多くあるというのが非常によく分かる。

 

人間のものになって自律性を持った理性は、いったい何によって正しいと担保されるのだろうか。

 

江戸時代の思想や、中国哲学などは、実際の生活に則して思索されていったのだろうが(たぶん)、抗えないグローバル化の中で、それも日本で失われつつある。ではこれからはいったい何が「正しさ」の規範になるのだろうか。

 

正しさ、というわけではないが、これに関して、とてもロマンティックに、楽観的に、牧歌的に応えるとすると、『現代社会はどこへ向かうか』(見田宗介岩波書店、2018)より、次のようになるか。

 経済競争の強迫から解放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう。歌とデザインとスポーツと冒険とゲームを楽しむだろう。知らない世界やよく知っている世界への旅を楽しむだろう。友情を楽しむだろう。恋愛と再生産の日々新鮮な感動を享受するだろう。子どもたちとの交歓を楽しむだろう。動物たちや植物たちとの交感を楽しむだろう。太陽や風や海との交感を楽しむだろう。(p.135)

この本では社会自体が上昇志向をやめ、じきに人々はその時の交流を楽しむようになると述べている。

 

その場の交流を楽しむというのは、目の前の存在をそのままに受け入れる考えに近いようにも感じる。

これまたロマンティックな言い方をすると、社会が人々との交歓を楽しむようになる時、事実存在が復権するのかもしれない。