フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

「オタク」の自己チューさ —「二度目の人生を異世界で」騒動に見る

数日前、「二度目の人生を異世界で」というライトノベルの作者がツイッターで韓国や中国に差別的なツイートをしていたとして、出版元が出荷中止を決定したことがツイッター上で話題になっていた。また、後にアニメ化も中止が発表された。

 

www.huffingtonpost.jp

 

創作者の過去のツイートが原因で商売を中止する出来事は以前にもある。「ポメラニアンのコロちゃん」というアカウントの創作物でコラボカフェを開催したが、同様に過去のツイートに差別的な内容が見つかり、それが炎上したことでカフェの中止を決定したのだった。

ツイッターでの創作物から大きな流通に乗る機会が増えている今、今後もこういった事案は起こりうると思われる。

 

さて、今回の騒動で「表現の自由」という用語を自分自身で勝手に解釈し、出版停止を「弾圧」だとまで語る人たちがいた。そういった人たちは、内容に問題があり、中国で批判が相次いだため、出版社が出版を停止したと解釈しており、これを表現の自由の弾圧だと認識している節がある。

これは2つの点で誤認しており、1つは作者の過去のツイートが主な原因であるにも関わらず内容が問題視されたと原因を転化している点、もう1つは、本来は国家が国民に表現規制をすることを禁ずるのが表現の自由の禁止であるにも関わらず、出版社の判断で出版停止を決定したことを表現の自由の弾圧だと勘違いしている点である。

また、数年前のツイートを問題視して今になって出版停止という対応を取るのが問題であるとのツイートも見られたが、これも三菱樹脂事件を思い起こせば分かるように問題はない。この事件では、三菱樹脂に採用された学生が過去に学生運動を行っていたことが明らかになり、後に採用が取り消されたことが争点になった。裁判では、思想・信条によって企業が採用を拒否することを違法とすることはできないとされた。ビジネスとして出版を行っている企業が、問題があると判断した際に出版を自ら停止することは何ら問題がないと考えられる。

 

ここまで長くなってしまったが、こういった一連のツイートをする人や、これをリツイートして拡散するような人たちを、あえて批判的に「オタク」と表現してみたいと思う。

10年以上前のテレビ番組「マネーの虎」に出ていた高橋がなりは、オタクのことを「自分の感情を優先する人」だと表現した。

f:id:cemedine:20180609183923p:plain

高橋がなりは、自分の感情を優先するので質の高い創作物を制作する人たちが多くいるという意味で発言しているが、私はあえてこれをかなり否定的に捉えてみようと思う。オタクは、自分の感情を優先するので、自分たちの領域が侵されそうだと感じると、誤謬のある論理であろうととにかく理由を付けて、自分たちの正当性を主張しようとする集団なのである。

表現の自由」などという用語も偉そうに用いているが、本来のまなざしは表現の自由などには一切にない。自分の領域に関わらない表現の自由には関心がなく、自分たちに害が及ぶと感じた時だけそれらしい用語を引っ張って利用しているのだ。

今回の出版停止を認めると、私人間での圧力により出版社が規制することを危惧するツイートも見られたが、今回の騒動でさっそく出版社に批判的なツイートも散見されることから、むしろ今うるさいのはオタクのほうである。

こうした人間が多い背景に何があるのか、私にはわからない。

 

ただ、ビジネスの流れに乗れそうであった創作者が過去のツイートから失敗する例を見ると、少々気の毒な気もあり、何が正しくて何が正しくないのかという判断がついていない人々をどうするのかという問題が生じているように感じる。SNSの台頭によりネット上での情報の発信者は明らかに増加しているが、とても見ていられない情報もあふれている。教育ではネットの使い方に重点が置かれている印象があるが、それは技術的な問題であり、発信者として情報の精度や質の高さをどう担保するのかということを真剣に考えていく時期に入っているように思う。