フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

『ヒトラー演説 - 熱狂の真実』(高田博行、中公新書、2014年)感想

 今日は以下の本についての感想を書いていく。

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

 

私は高校生の頃、世界史が苦手で、今でも一般常識レベルの知識がない。だが、この本ではヒトラーの演説の分析だけでなく時代的背景も併記されているため、内容を把握しながら読み進めやすいものだった。くわえて、ドイツ国内の地名とその周辺の国々のざっくりした位置関係が分かっていると、より内容を把握しやすい。

 

タイトルだけでは、ヒトラーの演説のみを分析しているように感じてしまうが、演説ごとでの民衆の反応、用いられたプロパガンダの手法、演説のレベルがいつ完成したか、いつ演説が効果を持ち効果を失っていったのか、など広い目線で記されている。これを見ると、ヒトラーの演説のみでナチが台頭したということはなく、ドイツの置かれた時代的背景、ドイツ国民の気質、新たな科学技術の登場、などが複合的に合わさってファシズムがもたらされたのだと分かる。また、当時のドイツ人の大多数がナチ支持者かと思いきや、意外とそうでもない人も多かったという空気感も理解できる。

しかし、ヒトラーの演説は十分条件ではないにしても、必要条件だったのはやはり間違いないだろう。

 

ヒトラーの演説のレトリックについては第2章で、映像や音高を含めた分析は第4章で細かく述べられている。本書全体で、尤度比を用いて期間ごとに有意に登場した語を表にして示している点が特徴的である。

では第2章と、5章の一部で示されているレトリックの一例をここでまとめてみる。

・対比法「AではなくてB」

・平行法(A-B/A-Bの構造)

・交差法(a-b/b-aの構造)

・反復法(同じフレーズや音を繰り返す)

誇張法(「最もあわれむべき」「鉄のような精力」などの誇張された表現を用いる)

・曖昧表現(「多くの点で」「平和」「確信」など具体的内容に乏しい言葉)

・法助動詞の使い分け(「~しようとする」→「~であろう」→「~してかまわない」→「~ねばならない」と演説が進むにつれて変化する)

・仮想する構文「もし~ならば」

・ナチ運動期には「man(人)、du(あなた、君)、wir(我々)」という、ナチ党員を指すのか国民を指すのかその場の聴衆を指すのか、曖昧な用語を多用されている

 

こういった手法を用い、聴衆の反応を見ながら演説を構成していったところにヒトラーの演説の巧みさがある。もともとヒトラーは演説が得意だったとのことであるが、逮捕された1年間に手法的に完成されたとのことであるので、天賦の才と研究と練習によって演説が生み出されたことになる。

ヒトラーはその場の聴衆の反応に合わせて演説の内容を変えていたとのこであるが、一方的に話を聴かされる演説では、はたとおかしいと感じる箇所があったとしても、また次に話が行ってしまうので、全体としての印象しか残らないように思われる。

 

私が聴いていたら、まさしく「えっ?」と思ってもすぐに何がおかしいのか気づけないだろうなと感じる手法が、仮想する構文「もし~ならば」である。

実際の演説では次にような箇所がある。

「われわれの理念が、もしそれが正しいならば、普及するであろうことを確信してかまわない」

この論理を用いると、頭に仮定をつければ、後半で自分に合った主張をすることができる。

例えば、掃除用品売り場に買い物客と売り場販売員がいるとする。売り手はA商品を売りたいが、買い手はB商品を欲しがっている時に、セールスマンが「もしこのA商品をご購入していただけるのであれば、こちらのB商品も2割引きで販売させていただきます」と言うことができる。

実際の買い物の現場では考える場があるはずなので、「んーどうしよう」と悩むだろうが、ここにさらに他のレトリックを組み合わせてたたみかけてみる。

「この便利グッズ(A商品)を買った多くの方々が、もっと前から買っておけば掃除が楽になったとおっしゃっています。本当に多くの方々がこの便利グッズを買って、楽に掃除ができるようになったとおっしゃっています。もし楽に掃除をして時間をつくりたいなら、ぜひこの商品も買うべきですよ」

こんな感じだろうか。文章で書くので少し浮いてしまうが、これを売り場で口に上手い売り子に畳みかけられたら、そうかな、と思って買ってしまうのではないだろうか。

落ち着いて考えてみると、そもそも書いてはB商品を欲しいのだが、仮定を付けるだけで見事に話をすり替えることができてしまう。もちろん、そう簡単に売れることはないだろうが、ちょうどどこかでA商品のようなものがあってもいいなと思っていたら、一緒に買ってしまうかもしれない。

それと同じく、日々の生活に行き詰まりを感じ、経済的に状況を打破してほしいと国民が感じていたら、同じような手法で演説するヒトラーに扇動されてしまうのも無理はなかったのかもしれない。

 

しかし、本書を読んだ最後の印象は、冒頭でも述べたが、そこまで熱心にナチを支持していないという人も多かったということである。ナチが政権掌握した後、演説の聴取が義務化されることになったが、工場での集まりが悪かったり、ヒトラーの演説に飽きたりしていた。エピローグに次のように書かれている。

国民を鼓舞できないヒトラー演説、 国民が異議を挟むヒトラー演説、そしてヒトラー自身がやる気をなくしたヒトラー演説。このようなヒトラー演説の真実が、われわれの持っているヒトラー演説のイメージと矛盾するとすれば、それはヒトラーをカリスマとして描くナチスドイツのプロパガンダに、八〇年以上も経った今なおわれわれが惑わされている証であろう。

この本を読み終えた後には、確かに当時のドイツに対するイメージが変わった。映画などで持っていた印象とは違う、「現実の」ドイツが今までよりも見えてきた気がする。

この世界の片隅に」の映画を観た時も、街の人々の戦争の現実は実はこうだったのではないかと感じたことがあった。もっと「手近な現実」を、多くの国民はもって生きていたのではないかと思うことがある。

話があっちこっちに行ってまとまりがなくなってしまったが、この本で示したかったのは、ヒトラーの演説の手法やプロパガンダの解説ではなく、ヒトラーの演説を通じて映し出される当時のリアルなドイツの姿なのではなかろうか。