『万引き家族』は「失われたはずのコミュニティの復活」を夢想する私たちの姿だった
今になってようやく是枝裕和監督の『万引き家族』を見ることができた。
物語は6人の人間が万引きや年金を頼りに生活し、最後は散り散りになるというそれだけの話ではある。だが、本当には心が通じない関係性に思える人々が、家族さながら、いや、実際の家族以上に家族らしさを擁しているところに、この作品が評価されたポイントがあるのだろう。
現代の生活ではかつてのムラ社会から解放され、個人化が進み、おひとりさまで暮らしていくことのほうが楽だという意識が強い。しかしその一方で、資本主義を生み出す一因となったプロテスタンティズムが、神に救われるためにひたすら働くという孤独な戦いに貫かれていたように、我々は自由を手に入れた代わりに安心を失ってしまった。
今の社会で正しく真っ当な(道徳的、社会通念的によしとされる)生活を送っている家族には、かつて我々が安心を手に入れていたはずの温かいサークルはもう存在しない。けれども私たちは、心が通じ合っている人々とのコミュニティに属することを夢見ている。そうしたコミュニティが現代にもよみがえったのが、実は社会から見えない人々で作られた家族だったのである。
この家族は、常に見えない存在になり続けている。万引きで生計を立てる親子、虐待される子ども、風俗店で働く女子、弔われない老婆・・・。私たちの日常の生活からは目に見えない人々である。いや、見ないようにしている人々か?
見えない人々であるから、もしかすると本当はそこらじゅうにいるのかもしれないし、映画の中だけの存在かもしれない。自分の知り合いで、今なにをしているかということをきちんと知っている人なんて、どれだけ多く見積もっても100人もいかないだろう。もしかすると、この日本にいる残りの1億人は、見えない人々かもしれない・・・。
見える存在である私と、見えない存在の誰か、どちらが孤独な存在か。しかし少なくとも、映画の中の家族は我々が本当は求めている紐帯を持った家族だった。犯罪をしながらもつながっている家族と、真っ当に生きながらも孤独と戦う人々、どちらが本当は社会を踏み外しているのか、わからなくなってくる。
だが逆に言えば、真っ当に生きる人々も、夢想するコミュニティを追い求めて見えない存在になることはできないのである。映画で描かれているのは、見えない存在であるものの温かいサークルの中で暮らす人々、であるが、本当の主題は、この映画では見えない存在になっている、真っ当な人々なのではなかろうか。
映画の最後では、家族は全員バラバラになり、真っ当に生きる人々になる。すなわち、コミュニティを喪失してしまう。
しかし、あのコミュニティに本当に絆は存在していたのだろうか。何があの家族を結び付けていたのだろうか。
コミュニティが失われた今、もうそれが何かはわからない。だが、きっと、絆でつながっていたコミュニティだったはずである。私たちがかつて、過ごしていたコミュニティもそうであったように。・・・そんなコミュニティは本当に存在したのか?今となってはもう誰もわからない。
映画の家族も、最後は正しさの中で生きていながらも、失われたはずのコミュニティで生きることをどこか夢見ている。これこそ、今の私たちの姿なのである。