フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

近所のネットカフェが閉店していた。

自宅から最寄り駅へ向かう途中にネットカフェがあったのだが、昨日、駅へ向かって歩いている時に閉店していたことに気がついた。そこのネットカフェは一度も利用したことはないし、いつか行こうと思っていたわけでもないので、なくなったところで何も変わらない。だが、なんだか、近所の公園が閉鎖されたような、じんわりとした寂しさを感じた。

 

 

夜にそのネットカフェの前を通ったのだが、ガラスの自動ドアの前に閉店を知らせる一枚の張り紙が貼ってあった。奥には、今まで個室として使われていたであろう仕切りが取り払われ、光を受け止める空間が広がっていた。

つい前日まで、誰かの私的な空間となっていた個室、そして、その個室群。そこで隣り合う人に知り合いは一人もいないだろうし、素性もさっぱり分からない。バイトまでの時間を潰す若者かもしれないし、家出した少女かもしれないし、今日食べるのにも困っている人かもしれないし、盗んだ金で居座っているやつかもしれない。

たった一枚の薄い壁で仕切られただけの空間で、自分だけの部屋ができたような気分になる。滞在するのは数時間かもしれないし、数日かもしれない。だが、その短い時間を、自分だけの空間として独占することができる不思議な空間。

その不思議な空間があっけなく解体され、個別の空間から光の当たる広場になった。誰かのための秘密基地があっという間に壊され、ただのビルの一室になったことが、寂しかったのかもしれない。

 

子どもの時に初めて自分の部屋を手に入れたとき、一人暮らしを始めて自分の部屋を持ったとき、何かの用でホテルの一室に入ったとき、自分だけの場所を手に入れたと思って得られるワクワク感。ここなら何をしても誰にも見られない。大人になって経験を積んで慣れてしまうと失われてしまうだろうワクワク感を、ネットカフェを利用するときに私は感じている気がする。

 

東京に行くと、この広い空間で何かが起こっているという高揚感もあるが、一方で人の多さに辟易してしまう。交差点や電車には人があふれていて、人なんてそこらじゅうにいるはずなのに、自分とコミュニケーションを交わす人間は一人もいない。何かを共有できる人間は誰もいない。

何の用もなく東京に行くことがあるが、ふっと、俺は何をしているんだろうと虚しくなることがある。感触のないただの大きな空気の固まりを抱きしめようとしてスカしているような気分になることがある。関われる人間はどこにもいないが、誰かと関わりたい。だけど、関わりのない人間が多くて、一人になりたくなる。そんな気持ちを受け止めてくれる要素が、ネットカフェにある気がする。

 

誰かと関わりたい、でも一人にもなりたい。

 

誰かの複雑で鬱陶しい気分を受け止めてきたであろう光の当たらないネットカフェが、こんなにも簡単になくなっていくのが、寂しかったのかもしれない。