フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

災害や事故を「神話化」して消費すること

以前にEテレをぼんやりと眺めていたら、「SWITCHインタビュー 達人達」という番組で、RHYMESTER宇多丸と文筆家の畑中章宏という人が対談をしていた。畑中という人は災害民俗学だとかいうことを提唱しているらしい。

私は民俗学の本すらまともに読んだことがないので、畑中章宏という人が正統な民俗学の流れから見てどういった評価を下されているのかは知らない。その対談の中で、東日本大震災の後、妖怪伝承が増え、災害で亡くなった方々を妖怪として人々の中で共有する流れがあったというようなことを言っていた。

妖怪がどうとかは知らないが、ただ、大きな災害や事故があった際に、その前後に不思議な、いわばオカルト的な出来事の逸話が増えるのはあるよなぁと思った。

 

2005年にJR福知山線脱線事故が起きた。当時まだ小学生だった私にも、テレビから流れてくる悲惨な事故現場の映像は衝撃だった。それから時間が経ち、ネットで不思議な話をよく読んでいた私は、次のような話を見つけた。

まだ事故が起きる前、事故が起きた車両に乗り込もうとしたところ、誰か分からない人に手を引かれ、電車に乗れなかったという話である。その他にも、この事故にまつわる逸話は数多く存在する。ネットではこの新聞記事の画像が出てくるが、何の新聞であるかは見つからなかったため、この画像自体が作られたものの可能性もある。

これが新聞に掲載されたのかどうかも含めて不確かな言説がいくつも生まれ、そして消費されていった。

『はじめて学ぶ民俗学』(市川秀之、中野紀和、篠原徹、常光徹、福田アジオ編著、2015年、ミネルヴァ書房)では、「カラス鳴きがわるいと誰か死ぬ」という俗信について次のように記されている。

カラス鳴きの予兆にまつわる話は、平穏な日常のなかに生じた亀裂、そこから生じる人々の緊張と不安な心理、あるいは不幸な結果の表現である。カラス鳴きという伝統的な表現様式に訴え、具体化していくことで話は信憑性を獲得する。それはまた、人の力ではいかんともし難い死という現象(異常)を説明し、納得しようとする伝承的な営みということもできる。(p.166)

大きな災害が起こった時には、助かる人と助からなかった人に必ず分かれる。これは、人為的な災害でも同様である。人為的な災害では、なぜ事故が起こったかを検証することはできるが、なぜその人が事故に巻き込まれてしまったのかは偶然によるものでしか説明ができない。したがって、全く遠い地に住んでいる人であっても、いつ事故や災害に巻き込まれるかは誰にも予測できないものである。

自然科学は合理化によって世界の見方を変えたが、人の生き死にに関する偶然性を明らかにすることはできない。そうした因果関係を説明することができない不確かさが、具体的な体験に引き付けて説明されることで、納得し、安心を得ることができると思われる。

そしてこれは、他者とのつながりを促す。『うわさとは何か ネットで変容する「最も古いメディア」』(松田美佐、2014年、中公新書)では、うわさを共有することで、ここだけの話を共有したという親密性が生じるという(p.109)。また、自分が不安に感じていることをうわさを通じて知り合いに話すことで気持ちを共有し、関係性を深めるのだという(p.110)。

 

災害や事故が起きた際に、その前後に起きたことが不思議な出来事として「神話化」される。その神話は、社会全体に広がる不安の表象であり、また、社会的紐帯を強めるメディアでもあるといえる。したがって、災害が起きた際に神話が増えるのは正常な免疫反応ともいえる。

 

 今回引用した本は以下。

はじめて学ぶ民俗学

はじめて学ぶ民俗学