フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

千田有紀から社会学ディスへ

NHK番組特設サイトの解説にキズナアイが出ていたことについて、社会学者の千田有紀氏(武蔵大学教授)が批判的な記事を書いたことから、私が観測した範囲でTwitterでは話題になっていた。

学者をディスることはTwitterでは日常茶飯事なので、別に大して気にしていないでいたが、気づいたら「こんな人が教授になれる社会学の界隈ってヤバいのでは?」という盛り上がりを見せていた。

で、恐らく、千田氏がTwitterで査読論文の少なさを指摘された際に、「査読論文より招待論文のほうが価値がある」と述べたことで、この「(日本の)社会学ヤバい」言説に拍車がかかったように見える。

 

私は社会学系の本を読むのが結構好きで、大学の授業でも社会学の授業を面白いと思っていたので、思ったことを少し書いてみる。ちなみに、私自身は趣味的に社会学の本を読んでいるだけであり、全くの門外漢であるので、どうでもいいという方はここで戻っていただいたほうが時間の無駄ではないと思う。

 

 

社会学ヤバい」言説側の安易な批判に対して。

・いち学者の資質と学問的価値を同列視するな

社会学では千田氏レベルでも教授になれる→社会学ヤバいと評価を下すのはあまりにも早合点だし、愚かなことである。一人の目立った学者がおかしなことを言っているからその学問分野自体がおかしいという話になってしまうなら、例えば医学など到底成り立たない。「がんもどき」で有名な近藤誠は慶應義塾大学の講師だったし、未だにがん放置療法を提唱している。主張に問題を感じるならば、その主張を批判するべきであり、その射程を学問自体に広げるのは意味不明である。

しかし、千田氏は査読論文を全然書いていないのに教授になっている。理系ではそんなことはあり得ない。そういう批判がありそうなので、次に思ったことが、

 

・他分野の方法論を押し付けるな

と、書くと、ぶっちゃけ他の分野のことをあまりよく知らないので、急に弱気になってしまうのだが・・・。

査読論文がより重要っていうのは、そもそも理系でもそれほど一般的なのだろうか。今のところTwitterで「査読」とかで検索するといろいろ話題なので、それのみが重点を置かれる学問分野を一般化するな、というのはやはりそうなのではないだろうかと感じる。

そして、「査読」を重要視する人たちが何を含意しているかというと、「じゃあ社会学の客観性はどう担保されてるの」ということなのだろうと思う。査読されてれば客観性は保たれていると考えるのも安易だとは思うが、社会という曖昧なものをどう分析すべきかという方法については、実は社会学は相当考えてきた学問だろうと感じている。方法論的個人主義、方法論的全体主義、理念型、エスノメソドロジー・・・(いかにもミーハーっぽい用語しか思い浮かばない)。例えば、『社会学的想像力』(C.ライト ミルズ、ちくま学芸文庫)では、他の方法論をパーソンズを批判的に記しながら、

社会構造の類型は、政治、親族、軍事、経済、宗教という制度的な諸秩序に注目することで、うまく理解できるだろう。ある歴史的な社会におけるそれらのアウトラインを把握できるようにおのおのの秩序を定義し、それぞれの制度がどのように関係し合っているか、要するに、どのように社会構造を編成しているかを問うのである。それにより簡便な一組の「作業モデル」が提示される。この「作業モデル」によって、特定の時代の特定の社会を検討する際に、諸制度を「結び合わせている」紐帯をよりはっきりさせることができる。(p.87)

 と書いている。まぁとにかく、客観性を保つべく方法論に関しては厳密に先達が考えてきた分野と言える。

 

 

そして、個人的に、社会学に対して

・個別研究が多く統一性がないように見える

先のところで、量的にのみ還元しきれない社会を記述する際に、様々な方法論が議論されてきたことを述べたが、逆に言えば、方法や用語に統一性がなく、分野としてどこにまとまりがあるのか分からない印象があるようにも思えるのである。社会学系の教科書をパラパラとめくると、一応のまとまりがあるようには見える。しかし、書店に並ぶ「〇〇の社会学」などという本を見ると、「何だっていいの?」と感じることがある。

教養で受けた授業で、確かに教員が一つの事象があった時に、好きなところに焦点を絞って分析できるのが社会学の強みだと言っていた。

こういうのも、医学で置き換えてみるといいのではないか。

例えば、基礎医学系で言うと、生理学、分子生物学、薬理学、生化学、病理学、解剖学・・・など。互いに、オーバーラップする内容もあり、一方を知っていることで他方を理解できるということがよくある。複雑である人間を記述する際にこれだけ分野がまとまっているのは美しいが、この分類もいつ変化するかは分からない。社会もそうであり、様々な視点に分散されすぎていて、結局何をしているのかよく分からないということなのだろうと思う。

 

 

最後に、今回の話題に関して。

・自身の方法に固執しすぎてはいけない

学問的な方法論は時間を経るごとに確立されていくように見えるが、その中でもやはり小さな変化は繰り返されていて、それが大きく転換する時がいわゆるパラダイムシフトというものなのだろう。

社会学に批判的な視点を投げかけた理系の分野の人々は、では自身の研究で用いている方法は本当に客観性を担保している方法かと考えたことはあるのだろうか。理論におさまらないデータを意図的に消去する捏造も、現実と理論が倒錯した結果起こりえることである。

今回、氏が批判的に言われたのも、自身の解釈や用語を用いてキズナアイを記述しようとしたことが、専門外の人間にはこじつけに見えたことによる反発だったと考えられる。別に私はフェミニズムの研究者でも何でもないので、偉そうなことは分からないが、自身の理論に固執するあまり、現実を理論に当てはめようとして記述されたという可能性はある。

今回の騒動が社会学自体の批判に向いたことは、逆説的に、その批判者が関連する分野でどのように客観性を保っているかを浮き彫りにさせる良い機会になったのではないだろうか。自身が科学的かどうかを棚に上げて批判する人も中にはいたに違いない。