フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

台湾料理 八角のニオイ

ゴールデンウィークを利用して、みんな大好き台湾に行ってきた。友人グループで観光をしていたが、仲間内での料理の感想について驚いたことがあった。

 

 

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海外旅行に行った際の楽しみの一つに、やはり現地の料理を食べることがあるだろう。イギリス料理はまずい、とか、本場のイタリアより日本で食べるイタ飯のほうがうまい、とか、いろいろな噂がある。日本で暮らしている限り、食文化も共有しているはずなので、料理に対する反応に国民性が出るのは納得できる。したがって、そういった噂もある程度信用できるものと思う。

その中でいうと、台湾料理は美味しいと言われていて、確かに個人的にはおいしいと感じた(もちろん日本人なので日本で食べる料理がよりおいしい)。料理の好みは分かれるとはいえ、一般的においしいと言われるものなら共有するものと勝手に思い込んでいた。

 

しかし、私がおいしいと思った料理を、仲間が本当に苦手で食べられなかった。何が原因か考えると、八角という台湾特有の香辛料がダメなようだった。

八角とはどんなニオイかというのを上手く説明できないが、肉のくさみがそのまま残っているようなニオイと感じた。別に私も、そのニオイが好きなわけではなかったが、特に気にならなかった。

ガイドブックなどでおいしい台湾料理として出てくる魯肉飯という料理があり、豚の角煮を刻んでご飯の上に乗せたものである。これなら大丈夫だろうと思っていたが、友人はそれから八角のニオイを感じ取り、やはり食べられなかった。

 

こうしてみると、同じ文化を共有している人間同士で味覚や嗅覚で明らかに隔たりが生じているのは、文化的に形成されるだけでなく先天的な因子によるところもあるからだろうと考えられる。しかしそれも、先天的なものか、後天的な因子が作用しているのかわからないが、いずれにせよ同じ環境で、同じものが食べられるか食べられないか、違いがあるのは当たり前であり不思議でもある。

 

ただ私も、あらゆる食べ物が美味しかったわけではなく、例えば臭豆腐は受け入れられなかった。台湾の屋台ではしばしば売られていて、揚げ豆腐に独特の風味のする薬味をかけた料理である。また、フルーツの盛り合わせで屋台で売られていたものに入っていた、緑色のフルーツも酸味と渋みがあり、食べられなかった。

 

異質な文化に触れた時に、その文化が鏡として作用し、自身の文化に内省的になれるものである。普段、意識にすら上がらない領域が普通でないと自覚された時、特にそれは強くなるだろう。そこでは味覚や嗅覚など、感覚的なものはダイレクトに働きかける。

和辻哲郎は、『風土』の中で土地の気候から人間を分析したが、個々の地域について述べる前に、そもそもなぜ気候から人間を語れるかを考察している。そこでは、寒い地域では、冷たい空気に触れることで、自身が「寒い」と感じ、それによって自身の存在を理解する、というようなことが書いてある。

それを食に当てはめてひっくり返すと、異国のまずいものを食べて、「まずい」と感じることで、自身の文化が前景化してくるとも言えるのではないか。うまいものを食べてもそれは自国の文化圏を出ていないが、まずければ、自国の文化の食事はおいしいと自覚されるわけである。

先の臭豆腐であってもわたしには受け入れがたい風味であったが、とても美味しそうに食べる現地人がいるのを見ると、自分の国で培われた感覚が自覚されてくる。

 

感覚的なことを理性的に理解することは容易だが、感覚的に理解するのは難しい。ミクロな例でいえば、うつ病が重症になると布団から出ることができなくなるということがある。文字通り、そういった症状が出るとはわかるが、どんな感覚なのか全くわからない。それが他者であることである。

マクロ的には文化として見ると、他国の食文化がこうであると頭では分かっても、それがおいしいという感覚が理解できないということになる。しかし、それが文化の理解のスタートということなのだと思う。

 

食やニオイは感覚的なものであり、まずいものが目の前に現れた時、異国の文化を一番に感じられ、一方で自国の文化を対象化できるチャンスなのだろう。