フエーヤー? フエーヤー・・・・・・チョッ!

受験生が、講評だけを辿って、今までにない傾向だとか、難解な問だとか、と言ってみても意味がないのである。

「女性は土俵から降りてください」とは何だったのか。

今年の4月4日に行われた相撲の巡業で、土俵上で倒れた市長の救助にあたった女性に対し、土俵から降りるように求めるアナウンスが流れたことが話題になった。

www.huffingtonpost.jp

ニュースやワイドショーで頻繁に報じられたため、内容については割愛する。

このニュースが話題となった理由としては、端的に表現すると、ゲマインシャフト的な論理とゲゼルシャフト的な論理の対立だったのではないか、と思う。

 

その前に、4月20日放送のTBSラジオ荒川強啓 デイ・キャッチ!」の中で、文化人類学者の関根康正氏がこのニュースについて述べていたのが興味深かったので、概要を記してみる。現在もラジオクラウドで聴くことができるので、聴いていただけたら、と思う。

 

関根氏は「ケガレ」を軸に私論を述べる。関根氏によると、ケガレとは、「よごれている」というのはあくまで矮小化した考えであって、本来は「秩序が壊れかかっているという混乱状態」のことだという。そして、人間には誕生のケガレ、初潮のケガレ、月経のケガレ、死亡のケガレがあり、どこの社会でも、人生の中でケガレを生ずる時があるという。今までいなかった子どもが生まれてくる、成員の一人がいなくなる、などによる秩序の乱れが生じる。

このケガレは、生活としてのケガレから支配としてのケガレ(不浄なもの)に移行してきたという。かつては、「今ヤバいから助けてくれ」というマーキングであり、そこでケガレを共有するために人々が集まっていた。結集の作用を持っていた。それから近代文明化するにつれ、支配者が支配する共同体を明確にするために排除するものを見つけていった。制度により、不浄なものとして社会を縁どりすることで、内部に浄なるものが生じる。

今回の相撲協会ニュースは、支配の論理として制度的に不浄なものを排除した反応であって、それが良いか悪いかということは議論できないが、そこに反省がないことが問題だという。

そこから話題はさらに聖と俗の話に移行する。相撲協会の今回の対応に対して批判が生じるのは、近代化により我々の世界で俗なるものが肥大化し、その論理の中で生きているからだと述べる。

 

ここからまだ話は続いているが、番組での内容についてはここまでにしておく。

 

さて、今回のニュースを受けて個人的に思っていたことと似たようなことを先生方が仰っていた(当然、私なんかより圧倒的に理解が深いが)。

人が倒れた時に救助するというのは当然邪魔をされるものではないが、今回、批判が集中したのは、相撲協会の論理と現代社会の論理の衝突にあったからである。近代化により法の支配のもとで社会を形成し、合理的な科学を信奉するのがゲゼルシャフト的な現代社会である。一方、相撲界では相撲は神事であり、力士は相撲部屋で共同生活を営み、そこでの伝統の慣習に従って生活するゲマインシャフト的な社会である。

関根氏は、支配の論理として土俵から女性を排除しようとする行動を説明したが、現在を生きる我々にとっては、危険な状態にある人を助けようとしている人を追い出そうとするのは、非合理的で、理性的でないように見えるのである。呪術からの世界解放を経たあとの社会では、ゲマインシャフト的な価値観に基づく行動は論理的でなく、問題のあるものとして映るわけである。

 

さて、ゲマインシャフトゲゼルシャフトについて、社会学者の富永健一は「近代化の理論」(講談社、1996年)の中で、次のように述べている。

こうして核家族の手もとに残った他に代替できない機能、すなわち戸田の言葉で「感情的に緊密に融合する共産的共同」と適格に言いあらわされた機能を、私はゲマインシャフト機能と呼びたいと思います。 ・・・ 私は、・・・「ゲマインシャフトゲゼルシャフトが未分離であった近代以前の社会に、ゲマインシャフトゲゼルシャフトが分離している近代産業社会が続く」と言いたいと思います。ゲマインシャフトは、・・・その純粋な姿が核家族の中にあるのです。この意味で、核家族は、近代産業社会におけるゲマインシャフトの最後の拠りどころなのです。(p.124)

今回の問題をゲマインシャフトゲゼルシャフトの対立として捉えると、相対化してみれば自身もゲマインシャフト側の論理としてゲゼルシャフトに対立する時が訪れるかもしれないと感じるのである。

富永によれば、現在の社会でゲマインシャフトとして残っている共同体は家族である。互いにゲマインシャフトゲゼルシャフトが分離している社会が続くわけだが、家族の中でケガレが生じる出産、月経、死亡の時に、ゲゼルシャフトと必ず関わる場がある。医療の場である。

リーガル・ハイ」というコミカルな法律ドラマで、医療過誤を描いた回があった。難病に対する新薬を使用したところ、医療者側も予期せぬ事態により患者が亡くなったことで、患者が病院側に訴訟を起こすというものだった。

医学が経験によるものからエビデンスに基づくものになってから、これはゲゼルシャフトに属するものと言ってよい。ドラマでは、患者が亡くなったことを受け入れられない家族が訴訟を起こすが、裁判は医療的に問題はなかったとして終了する。つまり、ゲマインシャフト的な論理の中では、社会がおかしいと感じ納得できない瞬間が訪れる可能性があるが、現代の社会ではゲゼルシャフトの論理の正当性が証明されれば、そちらが正当なものとして評価されることになるわけである。

もちろん、今回の相撲協会の対応は非難されるべきものであるが、相対化して考えてみると、そう他人事ではない事案なのである。

 

ケガレが結集の作用を持たなくなった今の世の中では、ケガレを媒介に騒動が起こることは繰り返されるかもしれない。